レポート  ・安徳天皇   
− 安徳天皇 −
安徳天皇(あんとくてんのう)治承2年(1178年)〜寿永4年(1185年)。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)。治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子(公式に皇太子を立てること)。
 
治承4年(1180年)2月21日に践祚(せんそ=天子の位を受け継ぐこと)し、4月22日に数え年3歳(満1歳4か月)で即位します。幼年のため実権はなく、政治は外祖父にあたる平清盛が取り仕切りました。
 
即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるており、摂政には藤原基通が任じられました。即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれましたが、半年ほどで京都に還幸。
 
寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちします。この後寿永2年8月20日(1183年9月8日)に三種神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し、元暦元年(1184年)7月28日に即位します。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになりました。
 
一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、1183年に現在の屋島東町にある見晴らしの良い高台に行宮を置きました。しかし、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼、源義経)によって、平氏は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れます。
 
そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突、平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至りました。安徳天皇は、祖母・二位尼(平時子)に抱かれたまま、壇ノ浦の急流に入水し、歴代最年少の満6歳4か月で崩御したとされます。
 
しかし、壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説が全国各地に残されています。その一つに、薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れたとする説があります。
 
平資盛(すけもり)に警護され豊後水道を南下し、硫黄島に逃れ延びて黒木御所を築いたとされます。しかも後年、資盛の娘・櫛匣(くしばこ)の局をお后として隆盛親王をもうけ、60代半ば過ぎで没したと伝えられています。
 
硫黄島港から歩いてほど無いとことに安徳天皇墓所があり、傍らには同行した平家の人たちの墓もあります。また、そこから少し離れた海辺寄りの所には、その子孫らの墓(応永の平家墓)があります。黒木御所跡は現在、安徳帝の子孫といわれる長浜家が所有しています。 
 
硫黄島(いおうじま、鹿児島県三島村) 2009年5月撮影
安徳天皇墓所(硫黄島) 2009年5月撮影
黒木御所跡(硫黄島) 2009年5月撮影
【参考にしたサイト】
(1)先帝祭 - Wikipedia
(2)硫黄島 〜 薪能 俊寛 − 鹿児島県三島村

2017.05.10
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