♪アヴェ・マリア(カッチーニ)
Piano1001
硫黄島 〜 薪能 俊寛鹿児島県三島村
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硫黄島と書けば、2006年のアメリカ映画『硫黄島からの手紙』が話題になった、東京都小笠原村に属する硫黄島(いおうとう)ですが、訪ねたのは鹿児島県にある硫黄島で、”いおうじま” と読みます。薩摩硫黄島とも呼ばれる、日本史において鬼界ヶ島を名乗っていたと考えられています。平清盛が権勢を欲しいままにしていた平安時代末期、平家打倒の陰謀が漏れて捕らえられた高僧・俊寛が流された島とした知られ、平成8年(1997年)には、中村勘三郎(当時は勘九郎)さんらによる歌舞伎『俊寛』が島で上演されました。二代梅若玄祥(梅若六郎改め)がシテ/俊寛を演じる薪能『俊寛』が5月30日、硫黄島の特設舞台で催されるというので日帰りツアーに参加してきました。三島村営フェリー『みしま』の定期航路は、鹿児島港を出港後、竹島を経由してして硫黄島まで約3時間15分を要しますが、今回薪能ツアーのために、片道1時間50分で枕崎港〜硫黄島港間を往復する臨時便が運航されました。          (旅した日 2009年05月)
   
   
いおうじま
硫黄島
薩摩半島南端の長崎鼻から南南西約40kmの位置にある竹島、その西隣の硫黄島、さらに西にある黒島の三島および無人島や数個の岩礁から成り立っているのが三島村です。三島村へのアクセスは、村営船フェリー『みしま』が、鹿児島港から竹島〜硫黄島〜黒島を結び、翌日逆をたどる週3便の航路があり、鹿児島港から竹島まで2時間50分、硫黄島まで3時間15分、黒島まで4時間15分を要します。硫黄島は、現在も盛んに噴煙をあげる硫黄岳がそびえ、その名前のとおり岩肌一面に硫黄を噴出している島です.。3つの写真はいずれも、フェリー『みしま』から眺めた硫黄島の風景です。
  
  
硫黄島港
赤色の海水
フェリーみしまが着岸する硫黄島港では、硫黄と温泉が海に流れ出しているため、港(長浜浦)に近づくと海水は黄緑色に変わり、港内に入るとすっかり赤色化していました(写真上・左)。まるで港一面が赤錆付いている感じです。港の西は切り立った断崖となっていて(写真左)、いかにも硫黄島港独特の景観を呈していました。
ジャンベで歓迎
西アフリカの世界的なジャンベ(アフリカのパーカッション)奏者ママディ・ケイタ氏との出会いにより、ジャンベが、三島村を代表する音楽と楽器になっているそうです。村の職員や中学生を派遣するなど、音楽を通じたギニアとの国際交流が行なわれ、また、平成13年8月には、村内の小・中学生が、ドイツとベルギーの町でジャンベ演奏会を行うなど、ヨーロッパとの国際交流も行なってきたそうです。平成16年には、日本初、アジア初のジャンベスクー『「みしまジャンベスクール』が硫黄島に開校しました。
 
薪能鑑賞のツアー客約200人(日帰り170名、一泊二日30名)を乗せたフェリーみしまが入港すると、島の子供たちジャンベの演奏とダンスで迎えてくれました(写真下)。
 
 
島の風景
硫黄島
三島村の人口は、平成18年度のデータによれば、竹島75人、硫黄島124人、黒島209人で、計408人となっています。硫黄島は、三島村の3つの島の中心に位置し、周囲14.5km、面積11.7km2。椿やつつじ、車輪梅の原生林が生い茂る、のどかな風景の島ですが、道路を歩くと、あちこちから孔雀の鳴き声が聞こえてきます。昭和48年(1973年)頃、ヤマハ楽器の関連会社による海洋リゾート整備の一環として、滑走路600mの飛行場が建設され、リゾートホテルがオープンしましたが、そのとき飼われた孔雀が、リゾート閉鎖後、野生化したもののようです。
 
手つかずの自然の美しさが残され、火を噴く火山「硫黄岳」をはじめ、地球との出会いを実感させる奇観と、無限に湧出する温泉やツワブキ、竹の子などの山の幸や椿油の原料となる椿の自然林、石鯛等の釣り場、俊寛流罪の遺跡や安徳帝墓所等々、観光資源に恵まれた島です。
               〜 以上、三島村公式サイトを参考
 
フェリー『みしま』を降り立った200数十名の来訪者たちが島の観光に港を立ち去ってしまうと、港はいつもの静かな風景になりました。停泊しているのはフェリー『みしま』(写真上)。硫黄島の中心街となっている硫黄島港(長浜浦)の住宅街(写真下)。
 
 
熊野神社
熊野神社
平清盛が権勢を欲しいままにしていた平安時代末期、僧・俊寛は、安元3年(1177年)、京都・鹿ヶ谷(ししがだに)の自分の山荘における平家打倒の陰謀がもれて捕らえられ、丹波少将成経(藤原成経)、平判官康頼(平康頼)と共に鬼界ヶ島(硫黄島)へ配流されました。成経と康頼は、遠く硫黄の噴煙を上げる硫黄岳、その手前にあるぽってりした稲村岳、港の反対側にある切り立った矢筈岳(やはずだけ)を熊野三山(本宮、新宮、那智)に見立て、早く都に帰れるようにと、紀州熊野三所権現を勧請してここに祭ったのが始まりとされます。その甲斐あってか、翌年、成経、康頼の二人は赦免され召還されますが、その後、この神社は、安徳帝晩年の皇居とされたとも伝えられています。
 
元暦2年(1185年)、安徳帝が住居されていから来眞三種権現と改められ、三種の神器を内陣に祭られたといわれます。硫黄島には、安徳天皇が先祖であるといわれ、昭和期に島民から代々『天皇さん』と呼ばれていた長浜豊彦なる人物(熊野神社の神主も務めた)がいたそうです。長浜家が『あかずの箱』というものを所持していたということも分かっていて、このあかずの箱というものは、中身未確認のまま島津氏に奪われましたが、箱の中には、三種の神器のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる宝剣が入っていたのではないかと考えられているそうです。
〜参考:フリー百科事典ウィキペディア。
  
 
俊寛堂

硫黄島には自然林及び人工林合わせて約46haの椿林があり、採取した実を絞って作る椿油は、村の特産品の一つとして販売されており、好評を得ているそうです。また、椿油を使った石鹸、シャンプー、リンスも作られています。俊寛堂に至る竹林の小道は肌理(きめ)の細かい苔が生えていて、人が通らないからでようか、まるで絨毯のようにふさふさでした(写真右)。
俊寛堂(庵)
俊寛は、粗野な島人と一線を引きたいという高僧としての思いがあったのでしょうか。食を断って自ら死を選ぶまで住んだとされる俊寛堂(庵)は、硫黄島港から2km上った、噴煙を上げる硫黄岳(写真左)を目前に見上げる山あいの竹林にありました。2kmの道のりを歩くと、舗装された道路(カメリアロード)の両側には椿林(写真左・上)が続きます。
俊寛堂(庵) 号泣きし、子供のように足摺して頼んだ甲斐もなく、只一人鬼界ヶ島(硫黄島)に残された俊寛は、とぼとぼと自分の粗末な庵へ帰った。俊寛は治承3年(1179年)9月、娘の身を案じつつ絶望のはてに絶食して念仏を唱えながら37才で死んだ。島の人々は、俊寛の死を哀れみ、三人を合わせ祭って俊寛の居住地跡に御祈神社を建てた。これを俊寛堂という。俊寛の霊を祭る柱松の行事は、俊寛の送り火として民俗学的に貴重な盆行事である。今なお長浜海岸で硫黄島地区の老幼男女総出の行事として盛大に行われ、その高さは20mにも及び、空を焦がすその炎の光は遠く屋久島からも見えたという。〜三島村教育委員会の現地案内板より。
   
   
安徳天皇陵

安徳天皇
平清盛の娘で高倉天皇に入内していた中宮徳子(とくこ)が懐妊し、安産祈願のための大赦にもかかわらず、僧・俊寛は赦免を許させず、食を絶して硫黄島で没するのですが、皮肉なことに生れた徳子の子、後の安徳天皇が、硫黄島に落ち延びることになるのです。
 
壇ノ浦の合戦において、安徳天皇は、最期を覚悟して神爾と宝剣を身につけた祖母二位尼に抱き上げられて急流に身を投じ、歴代最年少の8歳で崩御したとされますが、壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説が全国各地に残されています。その一つが硫黄島の伝説で、平資盛(すけもり)に警護され、硫黄島に逃れ延び、しかも後年、資盛の娘・櫛匣(くしばこ)の局をお后として隆盛親王を儲け、六十代半ば過ぎで没したと伝えられています。
 
硫黄島港から歩いてほど無いとことに安徳天皇墓所があり、傍らには同行した平家の人たちの墓もあります(写真上)。また、そこから少し離れた海辺寄りには、その子孫らの墓(応永の平家墓)があります。黒木御所跡(写真下)は、最初の住居があったと伝わる場所で、御所跡は現在、安徳帝の子孫といわれる長浜家が所有しています。
 
 
とくたいじんじゃ
徳躰神社
徳躰神社 祭神は初期の遣唐使として唐(中国)に渡った軽野大臣(かるのおとど)だと伝えられる。唐に渡った大臣は、唐の皇帝の怒りにふれて毒薬を飲まされ、言葉のいえない灯台鬼(とうだいき)にされてしまった。後年、その子春衡も遣唐使として唐に渡ったが、祝宴のとき、頭に燭台をのせて立っていた灯台鬼が春衡に歩み寄り、目に一杯涙をためながら、こっそり我が指を噛んで傷つけ、その血で床に、『燈し火の影は恥かしき身なれども 子を思う やみの悲しかりけり』と書いた。この歌を読んだ春衡は、ハッと驚き、これこそ帰らぬ父の姿よと思い、無理にお願いをしてその灯台鬼となっている父をもらい受け、日本を目指して帰国の途についた。途中船は嵐にあい、硫黄島坂元に漂着した。村里に出て弱った父を看護したいと思い、ここまで連れてきたが、衰弱のあまり、大臣は息絶えたのでここに葬り、その霊を徳躰神社として祭り、石祠を建てた。〜以上、三島村教育委員会の現地案内板より。なお、南條範夫(1908〜 2004年)がこの伝説をもとに小説『燈台鬼』(1956年直木賞)を著しています。 レポート・灯台鬼
   
   
冒険ランドいおうじま
冒険ランドいおうじま 2004年(平成16年)に鹿児島市が建設したもので、毎年2,000人以上の子どもたちが訪れ、ジャンベ体験や自然を満喫しているそうです。敷地面積21,000m2、宿泊定員150人。開所期間 3月20日〜11月30日。
 
 
みしまジャンベスクール
みしまジャンベスクール 平成16年(2001年)、日本初、アジア初として開校したジャンベスクール。ジャンベを通した交流が村の活性化につながるものと期待されています。
     
      
俊寛銅像
俊寛銅像
平俊寛、成経、康頼が(硫黄島)へ配流されました翌年、治承2年(1178年)、清盛の娘で高倉天皇に入内していた中宮徳子(とくこ)が懐妊します。安産祈願のための大赦により、丹波少将成経、平判官康頼の二人は赦免(しゃめん)され召還されることになりましたが、俊寛は一人許されませんでした。二人を乗せた船がいよいよ出ようとする際、俊寛は、海水の中に胸まで入り船にとりつき、同行してくれるよう必死の頼みをしますが赦免状をもった使者・丹左衛門慰基康は、俊寛の手を払いのけて一息に船を沖にこぎ出させます。号泣きし、子供のように足摺して頼んだ甲斐もなく、俊寛は只一人残され、茫然として海を眺め、海に佇むばかりだったといわれます。
  
三島村は、平成7年(1995年)3月、俊寛終焉の島、硫黄島の名を広く世に伝え、供養の念を新にするために、俊寛の像(写真上・左)を、著名な作家木佐貫熙氏の製作によって建立しました。いかにも俊寛の無念の形相が偲ばれる銅像です。写真下は、俊寛銅像の立つ総合開発センターの広場に特設された薪能舞台です。 平成8年(1997年)には、同じ場所に舞台を設け、中村勘三郎(当時は勘九郎)さんらによる歌舞伎『俊寛』が上演されています。
柱松(はしたまつ) 薪能の舞台は、岬の絶壁を背にして作られました。左右には、高さ約10mの柱松と呼ぶ松明が立てられ、劇中、それに点火する送り火の行事が行われました。点火のため、松明の先端に向けて投げられる火の光が夜空に美しい弧を描き、何度かのトライのあと、パッと点火して大きく燃え上がると観客席から一斉に拍手が起りました。
     
     
薪能・俊寛
薪能・俊寛 薪能は、港に都から御赦免船が到着し、三人が大喜びで出迎えるところから始まりました。康頼が赦免状を読み上げましが、しかし、そこには康頼と成経の名前が記されているのみで、俊寛の名前がありません。いぶかる俊寛は、自ら書状を手にして確かめ、裏に書いてあるのではないかと裏返してみますが、やはり自分の名前がみつかりません。『こはいかに罪も同じ罪、配所も同じ配所、非常も同じ大赦なるに、ひとり誓ひの網に漏れて、沈み果てなん事はいかに。』といって俊寛は嘆きます。島に1人だけ取り残された俊寛が、すがるように船を見つめる場面で終わりとなりました。幻想的な雰囲気の中、全国から集まった能楽ファンや島民ら約300人が俊寛の悲哀を偲びました。写真は、柱松の燃え上がる闇夜の風景に、ポスターの写真を合成して作成したものです。ポスターの絵は、俊寛が御赦免船の纜(ともづな)にすがりつく場面です。シテ/俊寛僧都:梅若玄祥、ツレ/平判官康頼:梅若基徳、ツレ/丹波少将成経:小田切康陽ほか。
 
 
【編集後記】

 
硫黄島からのお土産は、本格いも焼酎『みしま村』でした(写真右)。五合瓶入りで1,800円。三島村黒島産のさつまいもを使って、濱田酒造(鹿児島県いちき串木野市)で製造されているもので、三島村島内限定販売です。三島村にカライモ(さつまいも)が伝わったのは、今から約250年前だといわれます。以来村民の食生活に欠かせないものとなり、カライモの出来不出来が島の豊凶を決する作物となりました。厳しい自然環境の中で原始的な焼き畑耕作により作られ、今日まで受け継がれてきた無垢のカライモで作られた『無垢の香り』『黒麹造り』とラベルにあります。飲まずに記念のボトルとしてお蔵入りになりました。
現在、三島村へのアクセスは、村営船フェリー『みしま』が、鹿児島港から竹島〜硫黄島〜黒島を結び、翌日逆をたどる週3便の航路がありますが、枕崎を加えた航路の実証運航が2009年6月12日から始まりました。鹿児島港から出航したフェリーが竹島、硫黄島を経由して黒島まで航行したあと、約1時間50分かけて枕崎港まで航行させ、翌日は、逆順序で各島を経由して、鹿児島港まで航行させる実証運航です。この運航だと、島と県本土を毎日結ぶことができるわけです。この実証運行は2011年度までの計画で、今年度は11月までに計13回行われるそうです。良い実証運航結果が得られ、実現すればいいです。写真左は、枕崎港に停泊中のフェリー『みしま』。
  
  
【参考サイト】
(1)三島村公式サイト みしま村について
(2)フリー百科事典ウィキペディア    
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