♪アヴェ・マリア(カッチーニ)
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横井小楠を訪ねて熊本市
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勝海舟をして、『おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠(よこいしょうなん)と西郷南洲だ』といわしめた横井小楠。坂本龍馬や西郷隆盛をはじめ、幕末維新の英傑たちに絶大の影響を与え、『維新の青写真を描いた男』あるいは『維新の陰の指南役』的存在でありながら、教科書にももろくに取り上げられず、幕末物のドラマに登場することもほとんどない横井小楠。しかし、早くから現実的開国論をとき、東洋哲学と西洋の科学文明の融合を唱え、近代日本の進むべき道を示した人でした。横井小楠ゆかりの地を熊本市に訪ねました。     (旅した日 2009年02月)
   
   
よこいしょうなん
横井小楠
横井小楠をめぐる維新群像 横井小楠(よこいしょうなん)の生誕190年、没後130年(1999年)を記念して、翌2000年3月、高橋公園内(熊本城稲荷神社の斜め向かいにある)に建立された小楠と縁の人たちの銅像。左より、坂本龍馬、勝海舟、横井小楠、松平春嶽、細川護久
  
  
横井小楠記念館
    
横井小楠
1809年9月22日〜 1869年(明治2年)2月15日。幕末維新期の大思想家。通称平四郎。横井家は細川藩士家禄150石の家で、小楠は文化6年(1809年)熊本城下の内坪井(うちつぼい)で生まれる。藩校時習館(じしゅうかん)に学び居寮長に推されて数年、江戸遊学を命ぜられて天下の俊秀と交わり活眼を開く。帰国後実学を主唱し、中級武士と惣庄屋層の支持を得る。
 
越前松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に招聘され、福井藩にその経論を実現し、後に春嶽の幕府総裁職就任に当たっては、その顧問として幕政改革に貢献、その間に勝海舟と相識り、坂本龍馬にも影響を与えた。
 
文久3年(1863年)帰国を命ぜられ、士席を除かれて隠栖すること5年、明治元年経世の才を買われて新政府の参与に出仕、抱負の実現を図ったが、翌2年正月京の町で志半ばに凶刃に倒れた。
 
明治3年(1870年)、熊本藩は実学派の改革を実現し、藩知事細川護久(ほそかわもりひさ)、大参事細川護美(ほそかわもりよし)の下に、藩士山田・嘉悦(かえつ)・内藤等及び惣庄屋層の徳富(とくとみ)・竹崎・長野等により、肥後の維新の到来を見た。

 
〜横井小楠をめぐる維新群像(高橋公園内)の説明文より

横井小楠記念館 記念館の1階に小楠の立像が置かれて、『国是七条』の下書きや、吉田松陰や勝海舟が小楠に宛てた直筆の書簡、暗殺時に応戦した短刀、西郷隆盛の書、松平春嶽の書など小楠ゆかりの人々の直筆の書などが展示してあります。熊本県熊本市沼山津1-25-91(TEL:096-368-6158)月曜休館。JR鹿児島本線熊本駅から市バス交通センター行きで10分、終点で市バス秋津小楠記念館行きに乗り換え35分、終点下車、徒歩3分。
   
   
し じ けん
四時軒
四時軒と横井小楠記念館
『四時軒』(しじけん)は、幕末維新の開明思想家として知られた横井小楠も旧居。安政元年(1854年)兄時明が亡くなったために家督を継いだ小楠は、翌年、城下から沼山津(ぬやまず)の地に移り住み、四季の眺めを楽しむというところから『四時軒』と名づけ、自らも沼山(しょうざん)と号しました。
  
小楠は、明治元年(1868年)新政府に招かれ参与となり京都に向うまで、ここで門下生の指導にあたった。その間、四度も福井藩に政治顧問として招聘されており、土佐の坂本龍馬も彼の名声を聞いて、四時軒を三度訪れているほか、『五か条の御誓文』を起草した由利公正(ゆりきみまさ)、『教育勅語』の起草に尽力した元田永孚(もとだながざね)、『大日本帝国憲法』の草案をつくった井上毅(いのうえこわし)らも、この四時軒を訪れています。
ギヤマン障子
小楠の娘・みやの回想によると、二間続きの小楠の居間の南に面した障子の一部に『ガラス』がはまっていたそうです(写真左)。眺めのよい四時軒は冬の風はさぞかし冷たく強風であったに違いありません。風を防ぎながらも外を眺められるガラスは誰しも気に入ったことでしょう。娘・みやはそのがガラスに息を吹きかけては指で文字や絵を書いたり、外を眺めていたそうです。〜四時軒の説明文より
 

横井小楠(1809年〜 1869年(明治2年))
  
  
その酒宴の席で、龍馬の人物論が始まったそうです。『おれはどうだ』と小楠が訪ねると、龍馬は次のように言ったそうです[1]
 
先生あ、まあ二階に上がって、綺麗な女どもの酌で酒を飲みながら、西郷や大久保どもがする芝居を見物なさるがようござる、大久保どもが行き詰まったりしたら、そりゃあちよいと、指図をしてやって下さい。
 
また、勝海舟は、小楠を次のように評しています[2]
 
おれは、今まで天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ。横井は、西洋の事も別にたくさんは知らず、おれが教えてやったぐらいだが、その思想の高調子の事は、おれなどは、とても梯子(はじご)をかけても、及ばぬと思った事がしばしばあったよ。
 
(写真は、2枚とも四時軒で撮影したものです。)
小楠と坂本龍馬
横井小楠は、文久2年(1862年)12月に『士道忘却事件』(注記参照)を起こし、肥後藩庁から知行召し上げ、士席剥奪、蟄居(ちっきょ)の処分を受けています。この間に龍馬は、沼山津の『四時軒』を3回訪ねています。
 
元治元年(1864年)2月、勝海舟は幕府の命により長崎に出張する途中、龍馬らを沼山津へ遣わしました。海舟は、龍馬に生活に困窮していた小楠へ金品を持たせると共に、神戸海軍塾の情報を伝えさせました。それに刺激された小楠は『海軍の問答書』を執筆し、後日、長崎に居た海舟に届けさせました。海舟は長崎から故郷する4月、再び龍馬らを小楠のもとに派遣しました。この会見の後に甥の横井左平太、大平と門弟・岩男俊貞を航海修行のため神戸軍塾にいれるため龍馬に同行させました。
 
慶応元年(1865年)5月19日、『薩長連合』向けて奔走中の龍馬は、鹿児島の帰りに、白の琉球絣(かすり)の単衣(ひとえぎぬ)に鍔細の大小の刀を射した姿で四時軒を訪ねています。
  

坂本龍馬(1836年〜 1867年(慶応3年))
 
士道忘却事件(注記) 文久2年(1862年)12月、肥後藩江戸留守居役・吉田平之助の別宅二階で、小楠、吉田、肥後藩士都築四郎の三人が酒宴中、覆面抜刀の男二人に切り込まれます。たまたま梯子段近くにいた小楠は素早く階段を駆け下りて戸外に逃げ、福井藩邸へ帰って大小を受け取り現場に戻りましたが、素手で刺客と格闘した吉田、都築は傷を負います。小楠は、友人二人を見殺しにして逃げたのは、武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)であるとの非難を浴びることになりました。小楠は、福井藩の支援があって切腹は免れましたが、政治生命を絶たれることになりました。
 
 
小楠公園
 
小楠公園 有志の手で作られた公園で、『四時軒』から北東方向へ徒歩10分のところにあります。裃姿に刀を携えた横井小楠の銅像(写真上左)や頌徳碑(小楠の徳をたたえる碑、写真上右)が建てられ、北東の隅に小楠の墓(写真下)があります。小楠は、明治2年(1869年)、京都で刺客に襲われて暗殺され、京都の南禅寺天授庵に手厚く葬られていますが、遺髪が持ち帰られ、小楠公園のこの墓に埋葬されています。

    
【参考図書】
[1]徳永洋著『横井小楠〜維新の青写真を描いた男〜』(新潮新書、2005年1月発行)
[2]江藤淳・松浦玲編『勝海舟氷川清話』(講談社学術文庫、2000年12月発行)
 レポート ・横井小楠
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