レポート  ・横井小楠   
− 横井小楠 −
熊本市内、熊本城稲荷神社の斜め向かいの高橋公園内に、裃姿に刀を携えた横井小楠(よこいしょうなん)を中央前方に立たせ、そのうしろに坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽(第16代越前福井藩主)、細川護久(肥後熊本藩第12代藩主)を配した『横井小楠をめぐる維新群像』という銅像群があります。
 
勝海舟をして、『おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ』といわしめた横井小楠は、坂本龍馬や西郷隆盛をはじめ、幕末維新の英傑たちに絶大の影響を与え、『維新の青写真を描いた男』あるいは『維新の陰の指南役』的存在でありながら、教科書にももろくに取り上げられず、幕末物のドラマに登場することもほとんどない人物です。しかし、早くから現実的開国論をとき、東洋哲学と西洋の科学文明の融合を唱え、近代日本の進むべき道を示した人でした。
 
文化6年(1809年)、家禄 150石の肥後藩士横井時直の二男として城下・内坪井(現熊本市)に生まれます。藩校時習館(じしゅうかん)に学び居寮長に推されて数年、江戸遊学を命ぜられて天下の俊秀と交わり活眼を開きますが、帰国後、藩校の学校党に対して実学党グループを作り、私塾『小楠堂』を開き、藩政改革派を育てます。
 
藩校時習館で行っている学校党の学問が、例えば、富士山の裾野で植物辞典を片手に植物名を丸暗記したり、名前の由来を調べたりするものであるとすれば、小楠の私塾における学問は、植物の根源と効用を調べ、これを世の中に役立てようと裾野から頂上に向って植物を求めて登っていくような実学でした(徳永洋著『横井小楠』(新潮新書))。
 
しかし、小楠の考えは、保守的傾向の強かった地元熊本では受け入れられず、福井藩改革や幕政改革などに生かされることになります。熊本での冷遇とは反対に、嘉永5年(1852年)以来、4度にわたって福井藩に招聘され、福井藩の明道館の教授として、また松平春嶽の政治顧問として重視され、福井藩の藩政改革にあたりました。
 
文久2年(1862年)松平春嶽が幕府政治総裁となるとその顧問として、『国是7カ条』を作成するなどして幕政改革に貢献、その間に勝海舟と相識り、坂本龍馬にも影響を与えました。しかし、同年12月に『士道忘却事件』(注記参照)を起こし、熊本に帰藩。肥後藩庁から知行召し上げ、士席剥奪、蟄居(ちっきょ)の処分を受けると以後、沼山津(ぬやまず)の『四時軒』で隠栖。この間に、龍馬が3回『四時軒』を訪ねています。
 
隠栖すること5年の後の慶応4年(1868年)、小楠は新しい政府の参与として、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らとともに中央政府に招かれましたが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺されました。享年61。殺害の理由は『横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている』といった事実無根なものであったと言われています(フリー百科事典ウィキペディア)。
 
小楠の思想は、万延元年(1860年)に著した『国是三論』に集大成され、また慶応2年(1866年)、小楠の甥(横井左平太、大平)を渡米させた際におくった送別の語に、小楠の、世界における日本のビジョンが述べられています。
 
    尭舜孔子の道を明らかにし
    西洋機器の術を尽くさば
    何ぞ富国に止(とど)まらん
    何ぞ強兵に止(とど)まらん
    大儀を四海(しかい)に布(し)かんのみ
 
尭(ぎょう)、舜(しゅん)は、中国神話に登場する君主であり、『尭舜孔子の道』は東洋の精神文明を意味しています。つまり、東洋の精神文明をもとに西洋の科学文明を取り入れて、富国強兵に努め、さらに民主的、平和的な道義国家となって、これを世界に広めようと言うのです(徳永洋著『横井小楠』(新潮新書))。
 
明治3年(1870年)、熊本藩は実学派の改革を実現し、藩知事細川護久(ほそかわもりひさ)、大参事細川護美(ほそかわもりよし)の下に、藩士山田・嘉悦(かえつ)・内藤等及び惣庄屋層の徳富(とくとみ)・竹崎・長野等により、肥後の維新の到来を見たのでした。
 
エピソード
 
幕末維新の大思想家の横井小楠でしたが、大の酒好きで酒癖が悪かったようです。また、子供の頃は相当のわんぱくだったようです。徳永洋著『横井小楠』(新潮新書)におもしろいエピソードが紹介されています。
 
小楠のあまりのわんぱくぶりに手を焼いた母は、一計を案じ、ある日突然家の中で倒れ、気絶したふりをしました。ところが小楠は、そんな手はくわないとばかりに母の宝物である頭の銀のかんざしを引き抜いて、母の目の前でわざとねじ折ろうとします。母は内心驚きながら、それでもじっと動かずにいると、さすがの小楠もあわてて医者よ薬よと騒いだそうです。
 
天保11年(1840年)、酒失で江戸より帰藩させられた小楠は、家族に禁酒を誓って謹慎に入りますが、ところが、家の神棚の神酒徳利の酒が毎日なくなるので、兄嫁がおかしいと調べてみると、深夜に小楠がこっそり飲んでいることが分かりました。兄嫁はだれにも言わず、神棚に神酒を供え続けました。そのようなわけで、謹慎が解けたあとは、元の酒飲みに戻ってしまいました。
 
【注記】士道忘却事件
 

文久2年(1862年)12月、肥後藩江戸留守居役・吉田平之助の別宅二階で、小楠、吉田、肥後藩士都築四郎の三人が酒宴中、覆面抜刀の男二人に切り込まれます。たまたま梯子段近くにいた小楠は素早く階段を駆け下りて戸外に逃げ、福井藩邸へ帰って大小を受け取り現場に戻りましたが、素手で刺客と格闘した吉田、都築は傷を負います。小楠は、友人二人を見殺しにして逃げたのは、武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)であるとの非難を浴びることになりました。小楠は、福井藩の支援があって切腹は免れましたが、政治生命を絶たれることになりました。
 
【参考図書および参考サイト】
[1]徳永洋著『横井小楠』(新潮新書、2005年1月発行)
[2]江藤淳・松浦玲編『勝海舟氷川清話』(講談社学術文庫、2000年12月発行)
[3]フリー百科事典ウィキペディア
[4]横井小楠(熊本歴史・人物
[5]ふるさと寺子屋『 横井小楠 先生 』(熊本県観光サイトなごみ紀行くまもと)
  
【備考】下記の旅行記があります。
 ■旅行記 ・横井小楠を訪ねて − 熊本市
   → http://washimo-web.jp/Trip/Yokoi/yokoi.htm
 

2009.08.04  
あなたは累計
人目の訪問者です。
 − Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.−