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旅行記 ・富岡製糸場 − 群馬県富岡市 2014.06
富岡製糸場
(世界文化遺産、国指定史跡、国指定重要文化財)
正門から東繭倉庫を見る 
富岡製糸場 当工場は、明治5年(1872年)に殖産興業の一大政策のもとに政府が威信をかけて創建した器械製糸場である。その目的は新製糸技術の伝習と器械製糸場の設立普及のための模範工場であった。全国から参集した多くの工女たちは新技術を学び、帰郷後は指導者として大活躍する。一方、当工場を範とした器械製糸場が各地に設立された。その功績は多大なものである。三井家に払い下げられた以降、原合名会社の手を経て、昭和14年(1939年)に片倉工業株式会社の所有となり、片倉工業株式会社の全盛を築いてきた木骨レンガ造の建造物は創設当初のままである。
行啓記念碑(左)と国指定史跡記念碑(右)
昭和62年(1987年)3月に操業を中止した後も片倉工業株式会社が保全管理に努めてきたが、平成17年(2005年)7月国史跡に指定されたことを機に同年9月30日を以って全建物を富岡市に寄贈した。また平成18年(2006年)7月には創業当初の建造物等が重要文化財に指定された。この歴史的文化的価値の高い事績を末永く顕彰すると共に保存活用されんことを祈念してこの碑を建立するものである。平成19年3月。片倉工業株式会社。(以上、片倉工業株式会社記念碑より転載)
片倉工業株式会社記念碑
世界遺産登録 『富岡製糸場』を中心に、伊勢崎市の『田島弥平旧宅』(養蚕法「清涼育」を大成した田島弥平の旧宅)、藤岡市の高山社跡(高山長五郎が開発した養蚕法「清温育」の教育普及を行った高山社発祥の地)、下仁田町の『荒船風穴』(岩の隙間から吹き出す冷風を利用した蚕種の貯蔵施設跡)の4つを構成資産とする『富岡製糸場と絹産業遺産群』の世界文化遺産(世界遺産)登録が、今月(2014年6月)21日、カタール・ドーハで開かれている世界文化遺産委員会で正式に決定されました。世界遺産登録によって、地元商店街等の活性化も進むことでしょう。
商店街通りから富岡製糸場正門を見る
ひがしまゆそうこ
東繭倉庫
東繭倉庫・玄関口
東繭倉庫(ひがしまゆそうこ、East cocoon warehouse) 1872年(明治5年)築、長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。1階は事務所・作業所などとして使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵しました。倉庫1棟のは最大で2500石(約32t)の繭を貯蔵することができました。建物は木造の骨組みにレンガを積み並べた構造『木骨(もっこつ)レンガ造(ぞう』)という西洋の建築技術に、屋根を日本瓦で葺(ふ)き、漆喰(しっくい)でレンガを積むなどの日本建築の要素を組み合わせて建てられました。
東繭倉庫
レンガは日本の瓦職人が隣町の甘楽(かんら)町福島に窯を築いて焼き上げたものが使われました。また、目地(めじ、建築物や土木構造物において、少し間隔を 空けた部材間の隙間・継ぎ目の部分のこと)には、下仁田町の青倉、栗山産の石灰で作られた漆喰が、礎石には甘楽町小幡から切り出された砂岩が使われました。
東繭倉庫(北西方向から見る)
乾燥場
大雪で半壊した乾燥場
乾燥場 生糸の原料となる繭をさせた建物。繭のなかの蛹(さなぎ)を殺すことと、繭の長期保存に備えて繭からカビ発生するのを防ぐことを目的として繭を乾燥させます。1922年(大正11年)に建設され、その後1942年(昭和17年)まで増築・改装が行われ、操業停止まで使われました。2014年(平成26年)2月14日から15日にかけての大雪で半壊の被害を受けました。
西繭倉庫の方から東繭倉庫を見る(半壊した乾燥場の残骸が見えます)
煙突
1939年(昭和14年)築の第二代目の煙突
煙突(Chimney) 1939年(昭和14年)築。高さ37.5m、直径2.5m。現在の煙突は昭和14年に建設された鉄筋コンクリート製のものです。明治5年(1872年)には高さ36mの鉄製の煙突が現在の位置より西に建てられました。4.4mのレンガ積みの基礎の上に、高さ1m、直径1.3mほどある鉄製の筒を積み上げ、四方に鎖を張って支えていました。この初代の煙突は、明治17年(1884年)に暴風によって倒壊しましたが、高い煙突が設けれたのは、燃焼効率を高めるとともに石炭を燃やす際に発生する煤煙(ばいえん)対策のためでした。明治に使用された鉄製の煙突基部は、現在井戸の囲いとして残されています。
にしまゆそうこ
西繭倉庫
西繭倉庫
西繭倉庫(にしまゆそうこ、West cocoon warehouse) 1872年(明治5年)築、長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。東繭倉庫と同様、2階を繭の貯蔵庫として使用しました。建物の構造・大きさは、ほぼ東繭倉庫と同じです。ただし、建設当初、1階北半分は煉瓦壁がなく、蒸気エンジンを動かすための石炭置き場として使われました。昭和後期になってから現在の状態になりました。
西繭倉庫
検査人館
検査人館
検査人館(Dormitory for French male engineers)  1873年(明治6年)築。生糸の検査などを担当したフランス人男性技術者の住居として建設されました。木骨(もっこつ)レンガ造で建てられた2階建てベランダ付の住宅風建築物です。のちに改修され、現在は事務所として使用されています。2階には、皇族や明治政府役人がここを訪れた際に使用したといわれる『貴賓室』がほぼ当時の状態のまま残されています。
検査人館(右隣の白い建物は女工館)
女工館
女工館
女工館 1873年(明治6年)築 「骨レンガ造二階建て回廊様式のベランダ付き住宅。構造は検査人館とあまり変わりません。日本人の女工に、器械による糸取り技術を教えるために雇われた、フランス人女性教師の住居として建てられました。ベランダの天井は板が格子状に組まれ、当時の日本建築にはない特徴が見られます。
女工館
そうしじょう
操糸場
操糸場(左)と東繭倉庫(右)
操糸場(Silk-reeling mill) 1872年(明治5年)築。長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m。操糸場は、繭から生糸をとる作業が行われた場所でした。創業当初はフランス式操糸器300釜が設置され、世界最大規模の工場でした。明治5年から操業停止の昭和62年(1987年)まで115年にわたって一貫して生糸生産を行いました。現在は、建物内部には昭和40年(1965年)以降に設置された自動操糸機が残されています。
操糸場(左)と東繭倉庫(右)
建物には従来の日本にはなかった『トラス構造』という建築工法が用いられています。さらに採光のため多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの『越屋根(こしやね)』が取り付けられました。全国から応募した女性たちは、富岡製糸場で器械製糸の技術を学び、もちに地元の工場で指導者となることで、器械製糸技術の普及と日本の近代産業の発展に大きく貢献しました。
操糸場内部
生き血をとられる? 当初、工女募集の通達を出しても、なかなか人が集まりませんでした。それは、人々がフランス人の飲むワインを血と思い込み、「富岡製糸場へ入場すると外国人に生き血をとられる」というデマが流れたためでした。政府はこれを打消し、製糸場建設の意義を記した「告論書」を何度も出しました。また、初代製糸場長の尾高惇忠は娘の勇(ゆう、14歳)を工女第一号として入場させて範を示しました。こうして、当初予定の明治5年7月より遅れて同年10月4日から操業が開始されました。
操糸場内部。1987年(昭和62年)まで使われた機械がそのまま残されています。
官営時代の労働条件は次のようでした。〔勤務時間〕年平均一日7時間45分。〔休日〕日曜日(七曜日)のほか、暑休や年末年始の休暇。〔給料〕能率給。月給制で当初は4等級だったが後に8等級に細分化された。一等工女1円75銭、二等工女1円50銭、三等工女1円、等外工女75銭。〔福利厚生〕宿舎が用意され食事は支給。毎日入浴できる。場内の診療所で治療が受けられ診察料および薬代は工場が負担。〔在勤期間〕一か年以上三か年まで希望通りとする。
フランス式操糸機を使った創業当初の操糸作業の再現(陳列写真を撮影)
上述のように、明治期の労働条件としては世界でも異例なほど恵まれていました。日本の民営工場の模範になることを目指した官営施設だったため、採算を度外視して福利厚生にも力を入れていたのでしょうが、創業19年後に三井家に払い下げられ、民営化とともに労働条件は厳しくなっていったようです。
東繭倉庫の方から南をみる。右手に操糸場、左手に診療所。奥がブリュナ館。
診療所
診療所(片倉時代を偲ばせます)
診療所(Clinic) 1940年(昭和15年)に建てられた3代目の診療所(明治時代は病院といっていました)。当初の診療所は敷地の北東部分に建てられ、フランス人医師が治療にあたりました。また、官営時代においては治療費・薬代は工場側が負担していました。官営から片倉までの全期間を通じ厚生面が樹実していたことが分かります。
診療所
ブリュナ館
ブリュナ館
ブリュナ館(Brunat House) 1873年(明治6年)築指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナが、政府との契約満了となる1875年(明治8年)末まで家族と暮らした住宅。広さが約320坪ある建物は、木骨(もっこつ)レンガ造で建てられ、高床で廻廊(かいろう)風のベランダを持つ風通しのよい造りになっています。
ブリュナ館
のちに建物は工女の夜学校として利用され、片倉時代には片倉富岡高等学園の校舎として使われました。そのため内部は大幅な改造が加えられており、当初の面影はほとんどありません。しかし、現在は講堂となっている部屋の床下には、食料品貯蔵庫に使われたと考えられるレンガ造りの地下室が残されています。
ブリュナ館(右)と寄宿舎・榛名寮(左)
ブリュナ館の西に隣接した木造2階建切妻造、桟瓦葺の建物は『榛名(はるな)寮』(写真上の左)です。三井時代の1896年(明治29年)築。当初の工女寄宿舎老朽化に伴い新しく建てられた二代目の寄宿舎。各部屋が20畳以上の大部屋になっています。2階建の古民家(養蚕農家)であった前身建物を転用したものと考えられています。(参考:建築学習資料館フォトギャラリー
ブリュナ館
寄宿舎
妙義寮(左)と浅間寮(右)の2つの寄宿舎
片倉時代の1940年(昭和15年)、榛名寮よりさらに西に2棟の寄宿舎が建てられました。南側(上写真中の左)のものを『妙義寮』、北側(右)のものを『浅間寮』といい、両方とも女子寄宿舎。木造2階建寄棟造・桟瓦葺で、北に廊下が付く片廊下式。部屋は一室15畳で、部屋数は1棟16部屋計32部屋でした。(参考:建築学習資料館フォトギャラリー
寄宿舎(妙義寮)
西上州の山並み
富岡製糸場から望む西上州の山並み
『鏑川と山の懐かしい風景』 荒船・小沢岳・稲含・赤久縄(あかぐな)・・・静かでふところ深い西上州の山々。そして眼下を流れる鏑川(かぶらがわ)。古く戦国時代にはこの山並みの向こう側、甲斐の国から武田信玄が攻めてきました。製糸場創業当時、全国から500名を超える工女さんたちが、電車も自動車もない時代遥々(はるばる)この地にやって来ました。この風景を眺め、故郷を思い出したはず。Feb 2013 (富岡げんき塾の『富岡まちてくサイン』より)
 場内配置図
『場内の案内』(パンフレットをスキャンしたもの)
【備考】
本ページの文は、富岡製糸場内の案内板や説明板、現地で頂いたパンフレットなどのほか、『富岡製糸場ホームページ』や『富岡製糸場 - Wikipedia』などのサイトを参考あるいは引用して書きました。
【補遺】
片倉工業は富岡工場(旧富岡製糸場)を閉業した後も一般向けの公開をせず、「貸さない、売らない、壊さない」の方針を堅持し、維持と管理に専念した。富岡製糸場は巨大さゆえに固定資産税だけで年間2000万円、その他の維持・管理費用も含めると最高で1年間に1億円以上かかったこともあるとされる。また、片倉は修復工事をするにしても、コストを抑えることよりも、当時の工法で復原することにこだわったという。こうした片倉の取り組みがあったればこそ、富岡製糸場が良好な保存状態で保たれてきたとして、片倉の貢献はしばしば非常に高く評価されている。富岡製糸場の操業停止を受けて、市民レベルでもその価値を伝えていこうとする学習会「富岡製糸場を愛する会」が、当初は細々としたものではあったが、1988年に発足した。この団体は継続的に活動しており、特に活発な市民団体とされている。富岡市の取り組みでは今井清二郎の市長在任中(1995年 - 2007年)が、ひとつの大きな画期となっている。今井は市長就任前から富岡製糸場に強い関心を抱いており、市長になると片倉工業との交渉を開始した。そんな中、2003年(平成15年)に群馬県知事小寺弘之が富岡製糸場について、「ユネスコ世界遺産登録するためのプロジェクト」を公表した。翌年12月には県知事、市長、片倉工業社長の三者での合意が成立し、富岡製糸場が富岡市に寄贈されることとなった(土地は有償で売却、建物は無償譲渡。2005年(平成17年)9月30日付けで富岡市に寄贈され、翌日からは市(富岡製糸場課)が管理を行っている。(以上、『富岡製糸場 - Wikipedia』より引用
   レポート 製糸・養蚕にまつわる話し
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