レポート | 製糸・養蚕にまつわる話し |
− 製糸・養蚕にまつわる話し −
|
||||||||||
この6月、世界遺産への登録が確実視されている富岡製糸場(群馬県富岡市)を見学に行きました。官営として設立され、三井に民間払い下げされたあと、原合名会社を経て、第4代目の経営者が片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)でした。 片倉工業は、1939年(昭和14年)から1987年(昭和62年)の間、富岡製糸場の経営に携わり、その全盛期を築きました。片倉工業といえば、著者が住む鹿児島県さつま町(旧宮之城町)にもかつて片倉工業の製糸工場があって、養蚕も盛んでした。 最盛期の頃には、女工さんが退社する時刻になると、工場の前に彼女らを迎える車がずらっと並んだものだったと、聞いたものです。今は、工場跡はスーパーになっています。そんなわが町の盛衰を思い出しながら、訪ねた富岡製糸場でした。 §1.盈進(えいしん)小学校の校章 富岡製糸場の官営を引き継ぎその全盛期を築いた片倉工業の製糸工場がわが町に立地した背景を調べていて、自分がとてもうかつだったことを知りました。 わが町に、盈進小学校という小学校があります。『盈(みた)して進(すす)む』とは、中国の孟子の書いた本からとったという、由緒ある校名を頂く学校です。この小学校の校章は、『盈』の字を桑の葉が囲み、下の方に繭(まゆ)が3つ描かれたデザインだったのです。 わが町はかつてそれほど養蚕が盛んだったということです。著者はこの小学校の卒業ではありませんが、二人の息子が卒業していますから知っていて当然なのに、全然認識がありませんでした。
そのほか、わが町の製糸・養蚕の歴史について、 (1)宮之城島津家の家老・平田孫一郎は熊本の養蚕業を視察し桑の苗を買い入れて盈進館(盈進小学校の前身)の庭に植えた。 (2)栃木県から製糸教諭を招き、盈進館の庭に五十釜の座繰工場を設置し製糸を始めた。 (3)平田孫一郎が資財を投じて設立した養蚕学校は、県立宮之城農業高等学校高校の前身となった。 (4)明治26年、平田は厚生社という養蚕組織を作り、そこに養蚕業の先覚者・菅野平十郎を招き、彼の献身的な養蚕飼育法伝授で京塚原の農園は肥沃な土地によみがえった。 ということなどを知りました。そして、町内にお住いの堀之内さんからお便りを頂きました。 『うちも堀之内製糸として親戚間で工場が四つあったそうです。町の歴史、その背景、様々な移り変わりのなかで私たち次世代がある。これからの故郷を考え続け、文化を後世へと繋げられるようしたいです!』 かつて紡績業などと並ぶ輸出産業であり、かつ最大の外貨獲得産業であった製糸業。その栄枯盛衰の歴史は、全国いずこもわが町同様であったに違いありません。 §2.蚕起食桑 同じく町内にお住まいの上川畑さんからもお便りを頂きました。 『私の住む柏原区京塚原には、菅野平十郎の大きな養蚕記念碑が建てられていて、子供の頃遊び場となっていました。我が家の我が家のトジュ(隣り)に住んでた叔父の代まで養蚕を行っており、数十メートル離れた我が家まで、蚕が桑を食べる音がしていたのを懐かしく思い出しました。』 『蚕起食桑』と書いて『かいこおきてくわをはむ』と読みます。七十二候(古代中国で考案された季節を表す方式で、二十四節気をさらに3つに分けた期間)の一つで、5月21日〜5月25日頃を表します。この時期になると、蚕が桑の葉を盛んに食べて成長するようになります。山本茂実・著『あゝ野麦峠』につぎのようにあります。 〜 蚕が桑を食べる音は、さわさわ・・・と、そぼ降る雨の音に似ている。灰色の小さな毛蚕(けご)の時期を過ぎ、体が白くなり太ってくると、その音は小雨から本降りの雨の音へと変わっていく。ざわざわ・・・と。 〜
§3.梁の黒光りする家 著者が今住んでいる家の建て替え上棟式を行ったのは、奇しくも皇太子殿下と小和田雅子さまの結婚の儀が執り行われた1993年(平成5年)6月9日でしたから、21年まえのことになります。 それ以前に住んでいた家は、明治時代に建てられた家で、元々は茅葺だったのを昭和30年代に瓦葺きに葺き替えたものでした。手斧削りの梁(はり)や柱は、なかえ(食堂兼居間)から納戸まで、どれもこれも黒光りしていました。 梁や柱が黒光りしていたのは、蚕を飼っていた名残りでした。蚕を飼う部屋では蚕の成長に合わせて火を焚きました。それは保温のためであり、また、火を焚くと上昇気流が発生し暖かい空気が屋根裏から外に抜けることによって、涼しい乾いた空気が家の中に入ってくるという、蚕飼育環境保全の効果もありました。 わが家には、養蚕の名残しとして、納屋の二階に『糸繰り枠』も転がっています。
§4.松ヶ岡開墾場 戊辰戦争において新政府軍に執拗に抵抗した庄内藩(今でいう山形県鶴岡市、酒田市)でしたが、戦後処理における西郷隆盛(南洲翁)の寛大な処置に感じ入り、西郷に教えを乞うようになり、のちに『南洲翁遺訓』という本を出版し、全国に売り歩き、その伝道者となりました。 富岡製糸場を見学した帰り、高崎駅から新幹線に乗ると、奇しくも、JR東日本発行の車内誌トランヴェール6月号が山形シルクの特集をやっていて、『松ケ岡開墾記念館』の写真を掲載していました。 1874年(明治7年)、西日本では相次いで不平士族の反乱が起きていた中で、旧庄内藩士 3,000人は荒野を開墾・開拓し、 311ヘクタールにも及ぶ桑園を完成させ、富岡製糸場から指導を受け、生糸の生産も開始します。 『戊辰戦争で心ならずも「賊軍」と呼ばれ、旧藩士には、降伏したことの恥をそそがねばならないという気概があった。産業を振興することで、国家に報いたいという一念だったのでしょう』とあります。 南洲翁の教えも松ヶ岡開墾の志の支えになりました。開墾記念日には、床の間に南洲翁から贈られた『氣節凌霜天地知』の掛字を掲げて式典が催されるそうです。
富岡製糸場については下記の旅行記があります。 ■旅行記 ・富岡製糸場 − 群馬県富岡市 |
||||||||||
|
||||||||||
2014.06.15 | ||||||||||
|
||||||||||
− Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.− |