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♪荒城の月 | ||
おやじの唄 | ||
竹田〜岡城跡と街並み − 大分県竹田市 |
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熊本市内から国道57号を約40分走ると阿蘇です。さらに阿蘇から約40分、雄大な阿蘇の外輪山を越えて大分県に入ると直に豊後竹田に着きます。竹田は、何と言っても岡城跡とその荒廃したイメージをもとに滝廉太郎が作曲した名曲『荒城の月』で有名です。岡城は、文治元年(1185)に緒方惟栄(おがたのこれよし)
が源義経を迎えるために築城したのが始まりとされています。南北朝時代に志賀氏の居城となり、その後豊臣秀吉の天下統一のとき、播州三木から中川秀成が移封され、近世城郭の形態が整ったと言われます。中川氏は、明治2年(1869)の版籍奉還までの13代275年間治めました。岡城は、「臥牛城」
(がぎゅうじょう)とも呼ばれた堅固な山城で、天正14年(1586)の豊薩戦争では、3万余人からなる島津軍の襲来を一千の兵で攻守したそうです。播州三木から移封されるや秀成は、町並みを京都に模して商家や武家屋敷を配置したと言われ、ここかしこに、いにしえの面影が残っています。2万本の竹灯篭が揺らめく『竹楽(ちくらく)』の催される11月に訪れるたかったのですが、まだ緑が目に眩しい9月末の訪問でした。 (旅した日 2004年09月) |
豊後竹田 |
岡藩7万石の城下町は、今人口一万7千人弱の静かな街です。四方を山に囲まれたすり鉢の底のような盆地にひらけた街のためトンネルが多く、「レンコン町」とも言われています。竹田市の表玄関・JR豊後竹田駅(写真左)は、城下町の雰囲気を漂わせた駅舎で、列車が着くと荒城の月など滝廉太郎ゆかりの曲が流れます。市街地から岡城跡への入口にあるトンネル(写真右)の右側には、日露戦争中、旅順港閉塞戦で戦死した広瀬中佐を祀った広瀬神社があります |
岡城跡(国指定史跡) |
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岡城跡は、 『荒城の月』からイメージしていたうらぶれた城跡と違って、石垣の幾何学が美しい堂々の城郭が見えるような城跡でした。春には本丸周辺が2000本の桜で埋まり、秋になると紅葉が城跡を引き立てるそうです。 |
武家屋敷と旧竹田荘 |
殿町の武家屋敷(写真上右)や、岡藩の迎賓館で現在は観光協会が運営する茶屋として使用されている「茶房御客屋」(写真下左)などの家並みが、いにしえの面影を今に伝えています。日本南画界の最高峰・田能村竹田(たのむら・ちくでん)は、岡藩藩医の次男として安永6年(1777年)に生まれましたが、儒学を志して藩校由学館に学び、のち同校に勤めました。藩の役職を退いたあとは、全国を旅して詩や南画に独自の境地を開きました。現在保存されている竹田旧宅(写真上左・下右)は、今から200年前の建築であるといわれます。 |
滝廉太郎 |
「荒城の月」のほか「四季」などの名曲を残した滝廉太郎は、父の竹田赴任に伴い明治24年から4年間竹田に住みました。その旧家が現在は記念館になっています(写真下右、写真上左)。記念館の近くには、「廉太郎トンネル」(写真下左)があり、中に入ると滝廉太郎の曲が流れます。写真上右は、岡城跡の本丸跡に建つ廉太郎の銅像。 |
ばら『メンデルスゾーン』 廉太郎は、「荒城の月」を作曲後、22才の10月ライプティヒのメンデルスゾーン音楽院に入学を果たしますが、12月には聖ヤコブ病院へ入院を余儀なくされます。そして、翌年7月に文部省の命により志半ばにして空しく帰国しました。 |
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仏教建築と隠れキリシタン |
円通閣(写真下右)は、岡藩の儒者唐橋君山が蘇州寒山寺を模して1618年に建設したと伝えられ宗代中国風の楼閣建築です。円通閣をくぐって中に入ると右手に愛染堂(写真上右)があります。愛染堂は、1635年に、藩主中川久盛公が飛騨の匠を棟梁に迎えて建立と伝えられる建物で、軒下四隅には天の邪鬼人面の彫刻を施してあります( 国重要文化財)。愛染堂から下りる参道の左側には、十六羅漢の石仏(写真下左)が竹田の街を見下ろすように鎮座しています。隠れキリシタン洞窟礼拝堂(写真上左)は、キリシタン禁教令にもかかわらず、ひそかに礼拝が行われていた場所で、凝灰岩に西洋風のドームが掘り抜いてあります。 |
【備考】 (1)「竹楽(ちくらく)」については、下記のホームページが参考になります。 → http://www.city.taketa.oita.jp/tikuraku/index.html (2)土井晩翠(つちいばんすい/1871〜1952年)の詩『荒城の月』は、著者没後50年が過ぎて著作権の切れた作品として記載しています。 |
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