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旅行記 ・田川市石炭・歴史博物館 − 福岡県田川市  2011.12.10
田川市石炭・歴史博物館
石炭記念公園内にある田川市石炭・歴史博物館(左手のレンガ色の建物)
田川市石炭・歴史博物館 福岡県田川市にある田川市石炭・歴史博物館は、かつて日本のエネルギーを支えた筑豊炭田の石炭産業に関する資料を展示した石炭鉱業史の専門の博物館。筑豊地方最大の炭鉱であった三井田川鉱業所伊田坑の跡地に1983年にオープン。
旧三井田川鉱業所伊田竪坑第一煙突(左)、第ニ煙突(右)
旧三井田川鉱業所伊田竪坑煙突 明治41年(1908年)竣工/国登録文化財。伊田竪坑開鑿時に、捲揚機及び付属設備の動力として設置された蒸気機関の排煙用の煙突で、2本あり、東(写真左手)が第一、西が第二煙突である。煙突は丸型で、高さ45.45mある。213,000枚の耐火煉瓦が使用されており、うち181,000枚がドイツ製、32,000枚が国産である。捲揚が電力で行われるようになった後は、病院や炭鉱住宅への温水の供給に使われていたが、昭和39年(1964年)の閉山によって役目を終えた。この煙突は、炭坑節に『・・・あんまり煙突が高いのでさぞやお月さん煙たかろう』と歌われ、田川のみでなく、筑豊の象徴的な記念物になっている(現地案内板より)。
 
 炭坑夫之像と背後に香春岳(かわらだけ)
筑豊じん肺訴訟記念碑
原告たち炭鉱労働者は戦中戦後の日本経済を筑豊の地底から支えてきた。その筑豊の炭鉱を国は、スクラップ・アンド・スクラップ政策によって一挙に閉山に追い込んだ。炭鉱を追われた原告たち炭鉱労働者を待っていたのは、不治の病『じん肺』であった。繰り返すセキとタン、動悸、息切れ、呼吸困難の発作、そしてじん肺しであった”俺たちはボタじゃない”1985年12月26日、原告たち炭鉱労働者は、企業だけでなく国に対して、筑豊じん肺訴訟を提起した。炭鉱の安全管理を指導する国は、原告たち炭鉱労働者がじん肺にかからないための施策を怠ってきた。
炭坑夫之像
ン永い裁判闘争が続き、原告たち炭坑労働者が次々に志半ばにして命を奪われていった。原告たち炭鉱労働者とその妻たちは、街頭に立って支援を呼びかけ、多くの労働者、市民と結束してじん肺被害の償いとじん肺の根絶を求め続けた。筑豊じん肺訴訟の18年4ヶ月は、炭鉱労働者とその妻たちがじん肺被害の償いとじん肺根絶のためにほこりをかけて挑んだ闘いである。筑豊じん肺訴訟の最高裁判所判決はすべての労働者・すべての市民のための救済の羅針盤となった。これは、”俺たちはボタじゃない”と結束して闘った原告たち炭鉱労働者とその妻たちの勝利の証である。〜 碑文より。一部文章割愛。
筑豊じん肺訴訟記念碑
炭坑節之碑(右手に、伊田竪坑櫓が)
旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓(右手に、二本の煙突が)
旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓 明治43年(1910年)竣工/国登録文化財。伊田竪坑は、三井田川鉱業所が明治38年(1905年)から5年の歳月を費やして完成させた大型竪坑で、日鉄二瀬、三菱方城とともに当時三大竪坑と称された。竪坑櫓(やぐら)は、竪坑を通って坑内へ出入りするケージを上げ下げするためのもので、現在、第一・第二の2基の竪坑のうち第一竪坑櫓のみが残っている。この櫓は、イギリス様式のバックスステイ形式の構造で、全高28.4mある。鋼材はイギリスからの輸入材が使用され、『GLENGARNOCKSTEEL』などの刻印が見られる。筑豊炭田において唯一残っている鋼製竪坑櫓であり、歴史的景観を構成する記念物として重要である(現地案内板より)。
炭坑社宅の暮らし
 再現された昭和期炭坑住宅(居間)
社宅の間取りは4.5畳和室2間、押入れ2、土間2(明治)、6畳和室2間、押入れ2、土間2ヶ所(大正)。6畳と4.5畳の和室、押入れ2ヶ所、厨房1(昭和)でした。
  
朝起床すると、お茶漬けを掻きこんでいた。ヤマ人は、必ず朝飯は炊かない。温かい飯は弁当の菜(さい)、コンコン(沢庵)が腐るからである。前日の夕方炊くのが習慣になっていた。もっとも、朝は茶をわかすからヒチリン(火炉)をおこす。白色土製ハカタヒチリンと言うガラ(石)で、破れやすいもの、あつかいにくいものである。
〜 山本作兵衛炭坑画『朝の坑夫』より
外観は炭鉱住宅に模した産業ふれあい館
博物館の屋外には、2本の大煙突や竪坑櫓のほか、石炭の輸送に活躍したSL、採炭・掘進・運搬などに使用されたロードヘッダーなどの大型機械類を展示しています。
  
また、外観を炭鉱住宅に模した『産業ふれあい館』では、内部は明治・大正・昭和期の炭住の間取りを再現、他に展示室、研修室を配置しています。展示室には、炭鉱都市から新産業都市への変換をテーマにした展示を行っています。

   
 廃坑 若葉してゐるは
         アカシア  三頭火
三井田川鉱業所社宅(大正10年頃)
再現された昭和期炭坑住宅(厨房)
坑道ジオラマ
手堀採炭(寝て掘る低層炭)
手堀採炭(テボからい)
  寝堀りとテボからい
炭丈(スミタケ)45cmくらいまでは座って掘るが、それ以下の低層炭は寝て掘る。能率が上がらない(写真上々)。 〜 山本作兵衛炭坑画『寝掘り』より
   
テボからい(写真上)は、明治の末頃より大正時代、炭丈の高い卸(オロシ)切羽などの使用いていた。一回の積量が35〜40キロくらいで、これも女の業としては酷な方で、かよわい姫御ではとても出来ない芸当。勇婦だけの重々労働であった。
〜 山本作兵衛炭坑画『カライテボ(女坑夫)』ほかより
機械掘り採炭
田川市石炭・歴史博物館 第一室には、石炭のなりたちや、石炭がどのようにして採掘されたか、また、炭坑で働く人々や生活のようす、などが、一目で分かるように、坑道のジオラマや手堀り道具や採炭機械・道具などが展示されています。第二室には、炭鉱の生活の中から生まれた、絵画や文学作品などを展示され、第三室には、『田川地方の歴史と民俗』をテーマに、郷土の歴史資料が展示されています。
  
休館日(月曜日及び年末年始)
開館時間(午前9:30〜午後5:30)
入館料(大人210円、高校生100円、小・中学生50円)
機械掘り採炭
機械掘り採炭
 山本作兵衛コレクション展
田川市石炭・歴史博物館所の垂れ幕
世界記憶遺産(Memory of the World) 世界遺産(不動産対象)、無形文化遺産(人類口伝及び無形遺産傑作)と並ぶ、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)主催の三大遺産事業のひとつで、『失われていく歴史的記録遺産を最新の技術を駆使して保全し、研究者や一般人に広く公開すること』を目的とした事業。田川市石炭・歴史博物館所蔵の山本作兵衛炭坑画585点と日記類42点、福岡県立大学保管の炭坑画4点日記類66点(計697点)が日本で初めて世界記憶遺産に登録されました。
山本作兵衛氏(1892〜1984年)
『山本作兵衛コレクション展』 世界記憶遺産登録を記念して、田川市石炭・歴史博物館では、世界記憶遺産に登録された697点のうち、同館が所蔵する627点の資料群から、炭坑記録画(水彩画・墨画)の原画などの貴重な遺産を特別公開する『山本作兵衛コレクション展』を、平成23年9月17日から平成24年3月11日まで開催(当初は、平成24年1月9日までの予定でしたが、原画特別公開の継続を望む声が多く寄せられたことから会期を延長)。
案内チラシを見る 
炭坑画
 
低層炭 
炭丈(スミタケ)45センチ位までは座って掘り、それ以下は寝て掘ったという『低層炭』は筑豊では至って少なかった。遠賀郡に一、二あるという噂さだったが、能率があがらないから採掘はしなった。
 
 昇りや掘なさんな
     目に石が入る
  卸しや掘なさんな
       水がつく
         ゴットン
山本作兵衛(やまもと さくべい、1892〜1984年)は、福岡県出身の炭鉱労働者、炭鉱記録画家。日本で初めてユネスコから世界の記憶(世界記憶遺産)登録を受けた炭鉱画で知られる。
 
 鉄道と川舟船頭
明治22年九州に汽車がお見えした。ために、川舟石炭運送者の舟頭はほとんど失業し、手近い所のヤマに入り込む者が多かった。もとより、体力、腕っ節も強いので、直ちにヤマのゲザイ人(坑夫)に馴れ込むのも速かった。当時舟頭の愚痴こぼし、〜 あゝ、オカジョーキのためにおいらの飯茶碗はいよいよ叩き落とされた。
1892年(明治25年)、福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現・飯塚市)生まれ。7歳から父について兄とともに炭鉱に入り、立岩尋常小学校を卒業後、1906年(明治39年)に山内炭坑(現・飯塚市)の炭鉱員となった。
 
明治中期の小ヤマ 
七っ八っからカンテラさげて坑内にさがる自由さがあった。四っの目、四っの腕、四っの足で一人前。夫婦、親子、兄弟、あるいは他人と組む。二人で一と先一日二屯(トン)半ぐらい。スミバコ五、六函。低層炭。切羽からスラで曳出し、カネカタ(水平坑道)に、一度カブダシ(溜炭)して、炭車に掬(すく)い込む。
以後、採炭員や鍛冶工員として、筑豊各地で働きながら、日記や手帳に炭鉱の記録を残した。福岡県田川市にある炭鉱事務所の宿直警備員として働き始めた60代半ばに、「子や孫にヤマ(炭鉱)の生活や人情を残したい」と絵筆を取るようになる。
 
 ヤマの米騒動
盆オドリ
暴動は十八日に軍隊の弾圧によって鎮まりしも、なお余煙は去らず、十名以上集合禁の警令がでていた。おりしも旧暦の盂蘭盆(うらぼん)で豊前特有のウチワ踊りがハズム。大勢円輪であるから、警官の姿を見ると四散八走する浮腰でる。田川地区は、昭和二十年まで旧暦七月十三日、十五日盆であった。
自らの経験や伝聞を基に、明治末期から戦後にいたる炭鉱の様子を墨や水彩で描いた。余白に説明を書き加える手法で1000点以上の作品を残した。主要作は画文集『炭鉱に生きる』(1967年)。『ヤマの絵師』として知られた。
 
明治中期
乗廻し棹取
 ヤマNo1オメカシ男
この扮装を御覧じませ。ヤマの乙女は一寸見染めて恍惚と恋に心も掻乱れ、狂う者させおったと言う。先づ白布でうしろ鉢巻目の釣る如く、けばけばしいズボンつり仕立て、おろしの白いはだぎ・・・。
  
  わしのサマちゃん
      函のりまわし
   のりかた上手で
      なおかわい〜
      ゴットン
1984年(昭和59年)、老衰のため死去、92歳没(以上、山本作兵衛 - Wikipedia より)。坑内の労働のみならず、ヤマの生活、禁忌、当時の世相、子供たちの暮らしなど、炭坑社会のあらゆる場面が、絵と文章を組み合わせた構図と独特のタッチで描かれています。more
 選炭場の娘
大正の初めには中小ヤマにも選炭機が登場し、中塊も水洗機にかけた。それでも大塊選炭の必要があったから、選炭夫(婦)の姿は消えなかった。ベルトの速度は人の歩行ぐらいであった。昼夜十二時間交代。両手を使わないと係員から叱られた。
  
  してもせんと言う
     選炭場の娘め
  今朝も二度した
       うす化粧

      ゴットン
〔備考〕上6枚の写真は、『ユネスコ世界記憶遺産登録記念・山本作兵衛生誕120年記念2012年カレンダー』(田川市観光協会発行)を撮影。
 【参考図書およびサイト】
(1) 炭鉱の語り部 山本作兵衛の世界(田川市石炭・歴史博物館、田川市美術館、平成20年11月第一刷発行)
(2) 筑豊炭坑絵巻・上 ヤマの仕事(著者:山本作兵衛、発行所:葦書房、昭和52年7月第一刷発行)
(3) 筑豊炭坑絵巻・下 ヤマの暮らし(著者:山本作兵衛、発行所:葦書房、昭和52年7月第一刷発行)
   
 レポート ・山本作兵衛の炭坑画
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