♪花の歌(ランゲ)
ぴあんの部屋
修善寺温泉 − 静岡県伊豆市
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東名高速道路沼津ICから自動車で1時間。静岡県伊豆市(旧国伊豆国)にある修善寺(しゅぜんじ)温泉は、平安時代に弘法大師が開いた修禅寺とともにその歴史が始まったという、伊豆半島で最も歴史ある温泉です。中心に静に桂川が流れ、その沿岸に温泉宿が並びます。鎌倉幕府2代将軍源頼家が幽閉され、非業の死を遂げた地であり、修禅寺に残る頼家の面(おもて)という木彫の仮面にヒントを得て岡本綺堂が書いた戯曲『修禅寺物語』が有名です。静かな環境が文豪に愛され、夏目漱石をはじめとして多くの文豪が訪れました。また、伊豆の踊り子などで知られる天城越えの出発の温泉場でもあります。そんな修善寺温泉の風景をアップロードしました。                           (旅した日 2009年03月)
    
    
修善寺温泉
修禅寺境内より望む佇まい
修善寺温泉の歴史
弘法大師が大同2年(807年)に修善寺を訪れたとき、そこに病に疲れた父親の体を河で洗う少年を見つけました。少年の親孝行に感心した大師は手に持った独鈷杵(とっこしょ、法具の一つ)で河中の岩を打ち砕き、霊験あらたかなる温泉を噴出させました(独鈷の湯)。大師が温泉が疾病の治療に有効であることを説き、これにより父子は十数年来の固疾を時をおかずして完治させることができたといいます。これより修善寺に湯治療養が広まったと伝えられ、これが修善寺温泉発祥の温泉と言われています(フリー百科事典『ウィキペディア』)。
工事中の独鈷の湯が見えます(写真上)
独鈷(とっこ)の湯
史跡的温浴施設である独鈷の湯は、川の中央にあり、土台の岩や大きな石を組んで浴槽がかさ上げされ、湯を楽しむことが出来ました。しかし、大雨のときなど川の流れが阻害され、氾濫を引き起こす原因になりかねないということで、独鈷の湯を現在よりも川幅の広い箇所に移設することになり、訪れたときはちょうど工事中でした。工事が順調に進めば、今年(2009年)7月上旬には、独鈷の湯が再利用できる見込みのようです。
指月殿境内より見る修善寺温泉の家並み(写真下) 桂川沿岸の店や街(写真上)
泉質と宿
修善寺温泉の泉質は、アルカリ性単純温泉で、低張性・アルカリ性・高温泉、泉温は61.2℃。神経痛、リューマチ、胃腸病などに効果があるそうです。
 
修善寺温泉旅館協同組合のHPによると、20軒のホテルや旅館、50軒以上の飲食店、10数軒のお土産店がが桂川沿岸に軒を連ねており、年間を通じて様々なイベントの催しが企画されています。
修禅寺
修善寺本堂(写真上)

大同2年(807年)に空海が創建したと伝えられ、当初は真言宗に属していた。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われ、『延喜式』には「伊豆国禅院一千束」と書かれる程の寺院であった。その後、鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。建長年間(1249年〜1255年)に元の密偵と疑われていた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗された。(以上、フリー百科事典『ウィキペディア』)
修禅寺
修禅寺(しゅぜんじ)は、曹洞宗の寺院で山号は福地山。また、鎌倉幕府2代将軍の源頼家と源頼朝の弟・源範頼が幽閉され、この地で殺害されたことでも知られた寺である。岡本綺堂の『修禅寺物語』の他、夏目漱石の『修善寺の大患』、朧太夫の『今申楽朧座「修禅寺」』でも名高い。地名を修善寺(しゅぜんじ)、寺院を修禅寺(しゅうぜんじ)と呼ぶのが正しいと認識されていることが多いが、正確には両方とも「しゅぜんじ」と読む。
修禅寺の鐘楼堂(写真下)
桂川
虎渓橋(こけいきょう)(写真上・下)

竹林の小径(写真上)
〔頼 家〕 武運つたなき頼家の身近うまいるがそれほどに嬉しいか。そちも大方は存じておろう。予には比企(ひき)の判官能員(よしかず)の娘若狭(わかさ)といえる側女(そばめ)ありしが、能員ほろびしその砌(みぎり)に、不憫(ふびん)や若狭も世を去った。今より後はそちが二代の側女、名もそのままに若狭と言え。
 
〔かつら〕
 あの、わたくしが若狭の局(つぼね)と。
ええ、ありがとうござりまする。
 
 
しかし、このときすでに、北条時政の手下二三百人が夜討ちをかけようと集結していたのでした・・・・。
(修禅寺物語・第2幕より部分引用)。
おなじく桂川のほとり、虎渓橋(こけいきょう)の袂(たもと)。川辺には柳が幾本も立ち、芒(すすき)と芦(あし)が乱れ生えている。橋を隔てて修禅寺の山門が見える。空には月が出て、かつらは燈籠を持ち、もう片手は頼家の手に添えている。 
 
〔頼 家〕 おお、その時そちの名を問えば、川の名とおなじ桂と言うたな。
 
〔かつら〕 まだそればかりではござりませぬ。この窟のみなかみには、二本(ふたもと)の桂の立木ありて、その根よりおのずから清水を噴き、末は修禅寺にながれて入れば、川の名を桂とよび、またその樹を女夫(めおと)の桂と昔よりよび伝えておりますると、お答え申し上げましたれば、おまえ様はなんと仰せられました。
 
〔頼 家〕 非情の木にも女夫はある。人にも女夫はありそうな・・・・と、つい戯れに申したのう。
  
虎渓橋より上流の滝下橋を見る(写真下)
源頼家の墓
指月殿境内にある源頼家の墓(写真上)
源頼家の墓
正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった源頼家(みなもとのよりいえ)は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命でしたが、大きくゆれ動く時流と、みにくいかけひきに終始する政争に破れ、在位わずか六年で、この修善寺に流され、元久元年(1204年)、北条時政の手で入浴中に暗殺されました。享年23歳。岡本綺堂作の『修禅寺物語』(しゅぜんじものがたり)は、こうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものです。墓は小さな五輪石塔が、二基残されているのがそれだそうです。
指月殿
指月殿(しげつでん)は、この地で非業の死を遂げた頼家の冥福を祈り、実母北条正子が建立したもので、伊豆最古の木造建築といわれてます。 指月とは経典を意味し、禅家が愛用して不立文字(ふりょうもじ=言葉や文字にとらわれてはいけないということ)を解く言葉だそうです。建立の際、政子が寄進した宋版大蔵経は、大半が散失しわずかに8巻しか残っていないそうです。そのうち『放光般若波羅密経』の第23巻が静岡県指定文化財となっています。本尊の釈迦如来座像は、寄木造りで高さは203p、こ持ち物を持っているはずのない釈迦像が右手に蓮(ハス)の花の持っているのが特徴です。『指月殿』の扁額の実物は、宋の名僧一寧一山の書といわれ、修禅寺本堂に保存されているそうです。
指月殿へ上がる坂(写真上) 指月殿(写真下)
【参考にしたサイトおよび資料】
[1]修善寺温泉、独鈷の湯、修禅寺:フリー百科事典『ウィキペディア』
[2]岡本綺堂作・修禅寺物語(青空文庫)
[3]現地の案内板
        
 源頼家と修禅寺物語
      
     
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