レポート  ・源頼家と修禅寺物語   
− 源頼家と修禅寺物語 −
 
源頼家(みなもとのよりいえ)
 
1182〜1204年。鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で、母は北条政子。父頼朝の急死により18歳で家督を相続。従来の習慣を無視した頼家の独裁的判断が御家人たちの反発を招き、母方の北条氏を中心とした十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられた。
 
そうした状況の中で頼家が急病にかかり危篤状態に陥ると、まだ存命しているにもかかわらず『頼家が病死したので弟の実朝が後を継いだ』との報告が都に送られ、鎌倉では、頼家の乳母父で長男一幡(いちまん)の外祖父(頼家の側室・若狭局の父)である比企能員(ひきよしかず)が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされる。
 
一人残された頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、北条時政の討伐を命ずるが従う者はなく頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、入浴中のところを北条氏の手によって暗殺される。享年23(満21歳没)。頼家に代わって実朝が将軍職につくと、北条時政が幕府の実権を握ることになる。それから15年後の1219年、鶴岡八幡宮において、頼家の子公暁(くぎょう)に実朝が襲われ落命すると、実朝に子がなかったため、源氏の将軍は実朝で絶えた。(以上、フリー百科事典『ウィキペディア』より)
 
修禅寺物語(要約)
 
1908年(明治41年)秋、修禅寺を訪れた小説家・劇作家の岡本綺堂(おかもときどう、1872〜1939年)は、源頼家の面(おもて)だという木彫の仮面を目にします。作人も知れず、由来も知れない、古色蒼然(そうぜん)たるもので一種の詩趣を覚え、当時を追懐して書いた戯曲が『修禅寺物語』です。1911年(明治44年)、東京明治座で、二世市川左団次の主役(夜叉王)で初演され、大変好評を博しました。
 
−第1幕−
 
鎌倉時代、夜叉王(やしゃおう)という面(おもて)作りの名人が、伊豆修善寺・桂川のほとりの古びた藁葺きの家に、二人娘(姉かつら、妹かえで)とかえでの婿春彦とともに暮らしていました。姉のかつらは、美人ながら気位が高くまだ独身で、名誉・名声を好まない職人気質の父との山家暮らしに耐えられず、玉の輿を夢みています。
 
ある秋の晩、源頼家が下田五郎景安と修禅寺の僧を従えて、夜叉王の家を訪れます。自分の面体を後世に残したいと思った頼家は、自分に似せたる面を作れと夜叉王に命じていたものの、再三の催促にもかかわらずいっこうに出来上がってこないので、しびれを切らし、みずから催促に出向いたのでした。いつ出来上がるかとせまる頼家に、『恐れながら早急には作れませぬ』と答えるばかりの夜叉王。『むむ、おのれ覚悟せい』と頼家がなおもせまると、頼家の前へかつらが進み出でます。
 
〔かつら〕 まずお鎮まりくださりませ。面はただ今献上いたしまする。のう、父様。
〔五 郎〕 なに、面はすでに出来しておるか。
〔頼 家〕 ええ、おのれ。前後不揃いのことを申し立てて、予をあざむこうでな。
〔かつら〕 いえ、いえ、嘘いつわりではござりませぬ。面はたしかに出来しておりまする。これ、父様。もうこの上は是非がござんすまい。
〔かえで〕 ほんにそうじゃ。ゆうべようやく出来したというあの面を、いっそ献上なされては・・・・.。
 
かえでが細工場へ走り入り木彫の仮面の入った箱を持ってくると、かつらがそれを受け取って頼家の前に差し出します。頼家は無言で、かつらの顔をみつめ、心が少し打ち解けた様子になります。頼家は仮面を取ってながめ、思わず感嘆の声をあげます。
 
〔頼  家〕 おお、見事じゃ。よう打ったぞ。
〔五  郎〕 上様おん顔に生写しじゃ。
〔夜叉王〕 (形をあらためる)何分にもわが心にかなわぬ細工、人には見せじと存じましたが、こう相成っては致し方もござりませぬ。方々にはその面をなんと御覧なされまする。
〔頼  家〕 さすがは夜叉王、あっぱれの者じゃ。頼家も満足したぞ。
〔夜叉王〕 あっぱれとの御賞美ははばかりながらおめがね違い、それは夜叉王が一生の不出来。よう御覧(ごろう)じませ。面は死んでおりまする。
〔五  郎〕 面が死んでおるとは・・・・・。
〔夜叉王〕 年ごろあまた打ったる面は、生けるがごとしと人も言い、われも許しておりましたが、不思議やこのたびの面に限って、幾たび打ち直しても生きたる色なく、たましいもなき死人の相・・・・・。それは世にある人の面ではござりませぬ。死人の面でござりまする。
〔五 郎〕 そちはさように申しても、われらの眼にはやはり生きたる人の面・・・・・。死人の相とは相見えぬがのう。
〔頼 家〕 むむ。とにもかくにもこの面は頼家の意にかのうた。持ち帰るぞ。
 
そして、頼家は、自分の手もとにかつらを奉公させぬかと所望します。『父様。どうぞわたしに御奉公を・・・・・』と、かつら。夢のような望みが実現します。
 
頼家ら一行とかつらが去ったあと、夜叉王は、『せっぱ詰って是非に及ばすとはいえ、拙い細工を献上したのは、悔んでも返らぬわが不運。あのような面が将軍家のお手に渡って、これぞ伊豆の住人夜叉王が作と宝物帳にも記されては、百千年の後までも笑いを残されれば、一生の名折れ、末代の恥辱、所詮夜叉王の名はすたった。職人もきょう限り、再び槌は持つまいぞ。』と思案の眼を瞑(と)じます。
 
−第2幕−
 
同じ日の宵、おなじく桂川のほとり、虎渓橋(こけいきょう)の袂。川辺には柳が幾本も立ち、芒と芦が乱れ生えています。橋を隔てて修禅寺の山門が見えます。空には月が出て、かつらは燈籠を持ち、もう片手は頼家の手に添えています。

 
〔頼 家〕 武運つたなき頼家の身近うまいるがそれほどに嬉しいか。そちも大方は存じておろう。予には比企(ひき)の判官(はんがん)能員(よしかず)の娘若狭(わかさ)といえる側女(そばめ)ありしが、能員ほろびしその砌(みぎり)に、不憫(ふびん)や若狭も世を去った。今より後はそちが二代の側女、名もそのままに若狭と言え。
〔五 郎〕 あの、わたくしが若狭の局(つぼね)と・・・・・。ええ、ありがとうござりまする。
 
しかし、このときすでに、北条時政の手下二三百人が夜討ちをかけようと集結していたのでした。修禅寺の御座所へ帰った頼家が風呂に入っているところへ鎌倉勢が不意の夜討ちをかけ、頼家ばかりか、家来も大方が斬死。
 
−第3幕−
 
再び桂川のほとり、夜叉王の家。頼家の仮面を持ち、顔には髪をふりかけ、直垂(ひたたれ)を着て長巻を持ったかつらが、手負いの体で門口に走り来て倒れます。
 

〔かえで〕 これ、姉さま。心を確かに.....。のう、父様。姉さまが死にまするぞ。
〔夜叉王〕 おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。
〔夜叉王〕 幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸神(しん)に入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう。(快げに笑う)
〔かつら〕 (おなじく笑う)わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。ちっとも早う上様のおあとを慕うて、冥土のおん供・・・・・。
〔夜叉王〕 やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛を堪(こら)えてしばらく待て。春彦、筆と紙を・・・・・。
〔春 彦〕 はっ。(春彦は細工場に走り入りて、筆と紙などを持ち来たる。夜叉王は筆を執る。)
 
【備考】
本レポートの修禅寺物語(要約)は、インターネットの図書館、青空文庫で作られた下記のファイルを参考にして要約し、一部を引用させて頂き作成しました。
底本:「日本の文学77名作集(一)」中央公論社、1970(昭和45)年7月5日初版発行初出:「文芸倶楽部」1911(明治44)年1月
入力:土屋隆、校正:小林繁雄、2006年4月30日作成

   → http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1312_23045.html
 
修善寺については、下記の旅行記があります。
■旅行記 ・修善寺温泉 − 静岡県伊豆市
   → http://washimo-web.jp/Trip/Syuzenji/syuzenji.htm
 

2009.04.01
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