ワシモ(WaShimoのホームページ)

               
            
旅行記 ・諸鈍シバヤ − 鹿児島県大島郡瀬戸内町  2013.10.13
かけろまじま
加計呂麻島
 
大島海峡をはさんで奄美大島南岸と向かい合う位置にある加計呂麻島(かけろまじま)は、呑之浦(のみのうら)の特攻艇震洋基地跡と島尾敏雄文学碑、諸鈍(しょどん)のデイゴ並木、安脚場戦跡公園(あんきゃばせんせきこうえん)などで知られています。奄美大島の南端の港町・古仁屋(こにや)から『フェリーかけろま』で約20分。フェリーのほかに海上タクシーが走っています。諸鈍(しょどん)は、加計呂麻島の東側の玄関口・生間(いけんま)の港から歩いて約20分。ちょっとした峠を上りきると綺麗な諸鈍湾の風景が見えてきます。『諸鈍シバヤ』が開催される大屯神社(おおちょんじんじゃ)はその集落の入口にあります。写真は、古仁屋と大島海峡と加計呂麻島の遠望と利用した海上タクシー。
おおちょんじんじゃ
大鈍神社
     
文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人たちは、源氏の追討を逃れ安住の地を求めてトカラ列島を南下、1202年喜界島へ上陸し七城(ななじょう)を築いて居住しましたが、3年後にわずかな手勢を残し、1204年奄美大島を攻略。平有盛(ありもり)は奄美市名瀬浦上を、平行盛(ゆきもり)は龍郷町戸口を、平資盛(すけもり)は加計呂麻島の諸鈍をそれぞれ制圧して居城を構えたと伝えられています。『大屯神社(おおちょんじんじゃ)はその平資盛を祀った神社です。創建年代は不詳ですが、境内には文政11年(1828年)建立の平資盛の墓碑が現存しており、鎮座地の『諸鈍』は、資盛が配下の者に『ここまでは追っ手も来るまいから諸公は鈍になれ(安心せよ)』と言ったからと伝えられ、平家の落人伝説が色濃く残っています。学術的には否定的な説がありますが、伝承は800年以上にわたって引き継がれてきており、これからも引き継がれていくでしょう。この大屯神社で行われるのが『諸鈍シバヤ』です。
奉納相撲・エイサー
     
   
『諸鈍シバヤ』の開演に先立って、小中学生による奉納相撲と女子によるエイサー(沖縄でお盆の時期に踊られる伝統芸能)が披露されました。現在では『諸鈍シバヤ』がメインになっていますが、元々は『大屯祭(おおちょんさい)』として、相撲や踊りなどとともに奉納されていました。奉納相撲とエイサーの披露はその名残なのでしょう。
たまゆら
   
次に、踊り『たまゆら』が披露されました。”絶えず源氏の幻影に怯えながら、南の孤島まで落ち延びねばならなかった資盛主従の胸中に去来するものは、栄耀栄華を極めた都での暮らしの思い出であろう”、諸常無常の思いを切々と歌う、平家来島800年記念歌・『玉響(たまゆら)』にあわせて諸鈍集落長浜婦人会有志の皆さんが踊りました。
諸鈍シバヤ(芝居)
しょどんしばや (syodon shibaya)
国指定・重要無形民俗文化財
『諸鈍シバヤ』は諸鈍集落に残る踊り・村芝居で、平資盛(たいらのすけもり)が土地の人を招いて上演したのが始まりと言われています。”シバヤ”は、芝居と書きその言い方がなまったもの、あるいは柴で周囲を囲い楽屋にしていた柴屋等の説があります。一時中断した時期があったものの約 800年も続く伝統芸能で、毎年旧暦9月9日に平資盛が祀られている大屯神社(おおちょんじんじゃ)で上演されます。踊り手たちは諸鈍集落の住民で男性のみ、子どもたちも参加して、『カビデイラ』と呼ばれる手作りの紙のお面に陣笠風の笠をかぶり、囃子と三味線の伴奏にのって演じます。狂言や風流踊りなどの特徴から、諸鈍が海上交通路の要衛として栄えた頃、中国や大和、琉球等から伝わったものが一つの村芝居としての祝福芸能となったものと思われています。かつて20種余りあったという演目は、現在11演目が受け継がれています。『ガクヤ入り』から始まって、最後に『高キ山』で終わるのが決まりで、その間に9演目が順不同で演じられます。演目の中には、シシ(猪)を倒す勇壮なものやひょうきんな仕草で観衆を笑わせたりするものもあり、毎年多くの観客が全国から訪れます。
〔第一部〕
ガクヤ入り
いよいよ『諸鈍シバヤ』の始まりです。
諸鈍長浜でみそぎを済ませたシバヤ人衆が楽屋入りを行います。拍子木を先頭に三味線、太鼓、鉦、法螺貝で
(はや)しながら、音楽担当のりゅうて(歌い手)、踊り手の順に入場します。
サンバト(三番叟)
『芝居の前口上の劇』
山高帽をかぶった白髭マスクの翁
(おきな)が囃子にあわせて楽屋から出てきて、”トーダイ(東西)
クヌ村は三千年の昔から踊りヌシキタリ、などと口上を述べます。
翁が『鳴子を持って来い・・』と
おらべば、鳴子持ちがひょこひょこ小走りに登場します。このサンバトから
後の進行は翁が行います。
 
ククワ節
『平敦盛(あつもり)を偲ぶ踊り』
8人の踊り手が一方の端に房を付けた棒を持って優雅に踊ります。
”ククワ”は、”ここは”がなまったもの。
『ここはどこか(どの辺でしょうか)』と
船頭衆に問えば、ここは須磨の泊
(みなと)の敦盛さまへ行く途中です』と答える。お墓はどこですかと
尋ねると、『ススキの生い茂っている海沿いにあります。
親を亡くして泣く様子は
まるで磯辺の千鳥のようである。夕暮れ時には、衣装の袖で
涙をぬぐいます』と答える。
船を漕ぐ仕草、
袖を絞る仕草、涙を拭く仕草が見られ、平敦盛の弔いを物語る
意味深い歌と踊りです。
シンジョウ節
『棒を持たない優美な手踊りが特徴の踊り』
『コノ踊リハ種子島ノシンジョウボーシト申ス名高イ踊リデゴザイマス・・・』の
口上から始まりますが、内容は意味不明。
キンコウ節(兼好節)
『吉田兼好を歌ったもの』
キンコウとは徒然草の作者、吉田兼好のこと。『兼好法師は徒然草と色と情けはイロバタトバタ』
8人が円陣を組んで踊る優雅な手踊り。
スクテングワ
『琉球風の棒踊り』
歌詞はいろいろあって、代表的な歌詞の現代語訳は・・・ ハレ ヨ―ハレ ヤルヤール(これは囃子言葉)。
ハレ、スクテングワの歌の歌詞は、ヨ―ハレ、ヨ―ハレは美しい。
ハレ、表を打てば愛しい姉妹。ヨ―ハレ、
底を打てば美しい氷河、ヤル、ヤール私もそのようになりたいと思っていたのに。ハレ、沖のリーフを
打つ波が、ヨ―ハレ、浜に打ち寄せないまま引いて行くものでしょうか?
 ヤルヤール、忍んできたのに愛しい人が、ヨ―ハレ、
愛を交わさないまま帰るものでしょうか? ハレ、今日の嬉しさ、目出度さは、ヨ―ハレ、いつもより
勝っている。ヤル、ヤール、いつも今日のようで、ヨ―ハレ、ありますように。
などと、
色っぽい歌詞や目出度い歌詞が歌われています。今年の『諸鈍シバヤ』は、
このスクテングワで第一部が終わりました。
 
青壮年団土俵入り
     
   
第一部が終わると、青壮年団が境内に設えられた土俵の
廻りを行進します。おにぎりが運ばれ観衆に振舞われます。そのあと、諸鈍保育所の子どもたちによる
『ちびっこシバヤ』の行進があって、第二部に移ります。
〔第二部〕
シシ切リ
『シシ退治寸劇』
1人の美女が野原で踊り浮かれているところに突然シシ(猪)があらわれて襲いかります。
そこで、狩人が登場し、シシを退治する寸劇。
ダットドン(座頭殿)
『狂言風寸劇』
自分の琵琶がすり替えられているのに気が付いた座頭が琵琶の音が聞こえてくる川向こうに渡ろうとする様子を
ユーモラスに演じます。下の写真は、石を投げて川の深さを測ろうとしている仕草。
カマ踊り
『琉球風の豊作を祝う踊り』
今年の豊作を感謝し、来年の豊作を祈願する意味で、両手に木製のカマを持って、
血気盛んな青年たちが踊ります。
田んぼの畦を越える水は土を盛れば止まるだろうが、
若い俺たちの勢いは止められない。俺たちは日が暮れるのが待ち遠しい。早く日よ暮れろ! 
俺たちの時間よ早く来い! と、若い青年たちの心情が歌われます。
タマティユ(玉露)
『人形劇』
遊芸にふけってばかりで親不孝の限りを尽くした玉露(たまつゆ)という姫に
天罰が下って大蛇に食べられてしまいます。大蛇があらわれるとタマティユ(玉露)は屏風の中に隠れる。
これを3回繰り返す素朴な人形芝居です。
高キ山
『最後の出し物、豊年・豊作踊り』
一番の歌詞で『高き山から谷底見れば、うりや茄子の花盛り』と歌われ、
今年の豊作に感謝し、来年の万作を祈願します。
 大太鼓を先頭に、
造花を背負った踊り手、鉦を持った踊り手、素手の踊り手が続きます。
打ち止めにふさわしい明るさと躍動感に満ちた踊りです。
 
シバヤが終わって
シバヤが終わるとシバヤ人衆の顔見世があって、
観客を含めた会場全員で万歳三唱をしてお開きとなりましたが、余韻冷めやらない中で踊りが続きます。
下段中の写真で踊っているのは区長さん。
 古仁屋〜加計呂麻島 島尾敏雄文学碑公園 喜界島
あなたは累計
人目の訪問者です。
 

Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.