♪無言歌(フォーレ)
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かごしま 向田邦子文学散歩(1) − 鹿児島
                        (
TVドラマ脚本家、エッセイスト、小説家だった向田邦子さん(1929年11月28日〜 1981年8月22日)は、東京に生まれ、保険会社につとめる父の転勤により、一家で鹿児島に移り、9歳から11歳の多感な少女期を鹿児島で過ごしました。晩年、当時を思い返して、『長く生きられないと判ったら鹿児島へ帰りたい。(略) 少女期の入口にさしかかった時期をすごしたせいか、どの土地より印象が強く、故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう。』と短編エッセイに書いたほど、思い出深いニ年余りを鹿児島で過ごしました。1981年8月、取材旅行中の台湾で飛行機事故により51歳で急逝。鹿児島の紹介も兼ねて、向田邦子さんのエッセイに登場するかごしまゆかりの場所の風景をアップロードしました。                           (旅した日 2008年05月)


向田邦子と鹿児島
かごしま近代文学館・メルヘン館の玄関に飾られている向田邦子さんの写真
鹿児島市は、年少時代のわずか二年余を過ごしただけの土地でしたが、家族や近所の人々との間に様々なエピソードがあり、その後の進路に多大な影響を与えました。エッセイの代表作である『父の詫び状』のモチーフは、鹿児島時代の家族団欒であるといわれています。事故死前に雑誌の企画で鹿児島を訪問、その紀行短編エッセイ『鹿児島感傷旅行』(「眠る盃」所収)の中で自分の後世に多大な影響を与えた第二の故郷とまで称しているほどのお気に入りでした。遺品はかごしま近代文学館に寄贈され常設展示されています。〜 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 参考

かごしま近代文学館・メルヘン館
海音寺潮五郎、林芙美子、椋鳩十、梅崎春生、島尾敏雄、向田邦子など、鹿児島にゆかりのある28人の作家を多角的に紹介する近代文学館と童話の主人公の人形を展示するメルヘン館。
■開館時間 9:30〜18:00(入館は17:30まで) ■休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日〜翌年1月1日
■入館料 2館共通券 大人500円、小・中学生250円/単独券 大人300円 ■TEL 099-226-7771
かごしま近代文学館・メルヘン館
山下小学校
現在の山下小学校

    賞状 第四学年

      向田邦子

   本學年中操行學業
   體力優良ニ付之ヲ
   賞ス
  
 
 昭和15年3月25日
 
 鹿児島市山下尋常小學校

向田さんが三年生の三学期から五年生まで(昭和14年1月〜昭和16年3月)の2年余り通った鹿児島市立山下小学校(当時は、尋常小学校)は、明治11年(1878年)創立の小学校で、昭和43年(1968年)の頃は、2,000名を越えるマンモス校でした。向田さんは、体を動かすことも得意で、かごしま近代文学館に、左のような賞状が展示されています(左は、模して作成したもの)。

  子供の頃から、体を動かすことが好きだったし、得手
  でもあった。明るいうちは、運動場でバレーボールを
  したり陸上の練習。暗くなると、父の蔵書を読みふけ
  る女の子だった。将来、物を書いて暮しをたてような
  ど、考えたこともなかった。

             〜『男どき女どき』(わたしと職業)より。
向田さんが通っていた山下尋常小学校当時の校門の一部(山下小学校内)
向田邦子住居跡
居住跡地の碑(鹿児島市平之町14)
向田さんは、1975年に乳癌手術で入院。入院中のベッドで『鹿児島に帰りたい』と思ったそうです。そして、1979年になって38年ぶりに鹿児島を二泊三日の旅行で再訪しました。鹿児島空港に降り立った彼女は、そのまま、当時住んでいた平之町のあのうちへ直行します。

  石垣は昔のままであったが、家はあとか
  たもなく、代りに敷地いっぱいに木造モ
  ルタル二階建てのアパートが建っていた。
  戦災で焼けたのか老朽化したので取りこ
  わしたのか。門も、石段も新しくなって
  いた。昔通り裏山には夏みかんの木が茂
  り、黄色に色づいた夏みかんが枝の間か
  ら見えていたが、昔より粒が小さくなっ
  たように思えた。いや、夏みかんが小さ
  くなったのではない。私が大きくなった
  のだ。
〜『眠る盃』(鹿児島感傷旅行)より。

山下小学校の正門から城山を目指して、300mほど直進して歩くと、鹿児島三育小学校・幼稚園があって、そこに案内杭が立ててあります(写真上)。そこから65m坂を上げれば、居住(第一徴兵保険株式会社(旧・東邦生命)社宅)跡地で、居住跡地の碑(写真左)が建っています。下の写真のように、今では敷地の半分はアパートになっていますが、 右側面の石壁は当時のままだそうです。
居住跡(電柱の後方のあたり)


天文館
天文館交差点とアーケード 篤姫館の広告も揚げられています

  天文館は、もと島津の殿様が天文学研究
  のためにつくらせた建物のあったところ
  で、東京でいえば銀座、つまり鹿児島一
  の繁華街である。
     
〜『眠る盃』(鹿児島感傷旅行)より。

江戸時代、第25代薩摩藩主・島津重豪が、この界隈に天文観測や暦を研究する施設として明時館、別名『天文館』を建設したことに由来します。

          鹿児島市電について

鹿児島市の路面電車(鹿児島市営)は、日本最南端の路面電車ですが、年間延べ約1千万人の利用客があって、全国の同事業の中でも数少ない健全運営を誇る路面電車です。他の都市に先駆けてセンターポール化を進め、空の景観を取り戻し、また、2006年度からは、都市景観向上やヒートアイランド現象軽減を図るため、線路敷部分に芝生を植える『軌道緑化事業』が進められてきました。この軌道緑化事業は、電車走行時の騒音低減にも大きな効果があることもわかってきたそうです。11月のおはら祭りに登場する花電車を含めて、現在13の形の車両が運行されています。
薩摩揚(天文館・薩摩家で)
             薩摩揚

  一抱えもある桜島大根や、一口で頬張れ
  る島みかんに驚いたり、キビナゴという
  縦縞の入った美しい小魚や壺漬のおいし
  さに感動した。そして、どういうわけか
  我家は薩摩揚に夢中になった。


薩摩揚は、イワシ・サメ・カツオ・サバ・ホッケなど、2種類以上の魚のすり身を混ぜて、それに塩・砂糖などで味付けし、形を整えて油で揚げたもの。 厚さ1〜2cmほどの丸形、小判形あるいは角形、棒形などがあります。琉球(沖縄)料理に『チキアーギ』(付け揚げ)と呼ばれる魚のすり身を揚げた料理があって、それが薩摩に伝承されたのが由来だといわれています。鹿児島では、薩摩揚より『つけあげ』とか『ツッキャゲ』というのが普通です。

  春霞に包まれてぼんやりと眠っていた女
  の子が、目を覚まし始めた時期なのだろ
  う。(略)うれしい、かなしい、の本当
  の意味が、うすぼんやりと見え始めたの
  だろう。この十歳から十三歳の、さまざ
  まな思い出に、薩摩揚の匂いが、あの味
  がダブってくるのである。

        〜『父の詫び状』(薩摩揚)より
天文館電車通り


山形屋
山形屋本店(右上の建物)
  山形屋デパートで買ってもらった嬉しい思い出は、絞りの着物と一緒にまだはっきり残っ
  いる。見違えるように立派になったデパートをのぞき、素朴な盛り場からこれまた近代的
  なアーケードに変貌した天文館通りを散歩したが、この時もまた不思議にひとりでに足が
  動いて、父がよく本を取り寄せていた金港堂と金海堂二軒の本屋にゆくことが出来た。人
  間の記憶の中で、足は余計なことを考えず、忠実になにかを覚えているのかも知れない。
                           
〜『眠る盃』(鹿児島感傷旅行)より。

山形屋は、鹿児島市に本店を置く、宝暦元年(1751年)創業の老舗百貨店です。第8代藩主島津重豪(しげひで)に招聘された、近江商人の血を受け継ぐ山形県庄内地方の北前船商人が鹿児島城下に呉服商を開いたのが前身といわれ、鹿児島本店1号館の壁面に山形屋呉服店のレリーフが掲げられています。
山形屋前の電車通り


天保山と磯浜
今も天保山公園に残る松林。右側が与次郎ケ浜
天保山(てんぽざん)は、鹿児島市の市街地中心を流れ、鹿児島湾(錦江湾)に注ぎ出る甲突川の河口部に位置した場所で、天保期に堤防を築いたことから『天保山』と呼ぶようになりました。その南側には、与次郎ヶ浜が連なっていて、昔は白い砂浜が広がり夏は海水浴場として賑わったそうです。 与次郎ヶ浜は、昭和41年(1966年)〜47年にかけて海岸が埋め立てられ、現在、官公庁や企業、ホテルや文化・スポーツ、商用施設が集まった賑やかなエリアとなっています。

  海水浴場で心に残っているのは、鹿児島
  の天保山である。四十年前の田舎の海水
  浴場というのは誠にのんびりしたもので、
  葦簀(よしず)張りの入れ込みの脱衣場
  と、黒いこうもり傘を立てたラムネやゆ
  で玉子を売る小店が出ているだけであっ
  た。
 〜『父の詫び状』(細長い海)より

邦子さんは、天保山海水浴場の脱衣場で下着を盗られてしまいます。祖母が、当時小学校一年の弟に、『お姉ちゃんに貸しておやり、お前はじかにズボンをはけばいいじゃないか』といってきかせるのに、言うことをきかないので、スカートの裾を手で絞るように押さえながらバスに乗りうちに帰りました。
磯浜の両棒餅店『桐原家』
島津別邸・仙巌園(せんがんえん)のある磯浜は、『じゃんぼ餅』(写真右)が名物。小さな餅に二本の竹串を差し、きつね色に焼いたたれをつけたもので、二本棒すなわち『リャン棒』がなまって『ぢゃんぼ』となりました。

  母がこの『じゃんぼ』を好んだこともあ
  って、鹿児島にいる時分はよく磯浜に出
  かけた。海に面した貸席のようなところ
  へ上り、父はビールを飲み、母と子供た
  ちは大皿いっぱいの『じゃんぼ』を食べ
  る。このあと、父は昼寝をし、母と子供
  たちは桜島をながめたり砂遊びをしたり
  して小半日を過ごすのである。
 
      〜『父の詫び状』(細長い海)より


じゃんぼ餅は今でも磯浜の名物で、貸席を準備した両棒餅店が何軒かあります。邦子さんたちが利用したのは桐原家という店(写真上)だったそうです。また、道路沿いにもじゃんぼ餅を売る店があって、車が渋滞待ちをしている間にドライブスルーのような具合よろしく売っています。
両棒餅とドライブスルー
             細長い海

泳ぐのにはまだ早い春の終わり頃、小学校四年生だった邦子さんは、貸席の建物と建物の狭いすき間で、一人の漁師と行き合います。よけようとして壁板にはりついた瞬間、漁師に洋服の上から体をさぐられる軽いいたずらをされました。声も出ないで立ちすくんだ時、父の大きな声がしたので、漁師はそのまま行ってしまいました。建物と建物の間にはさまれた細長い海が見えました。

  ひいき目に見るのだろうが、やはり日本
  の海の方が凄みはないがやさしくていい。
  中でもひとつをといわれると、どういう
  わけかあのいささかきまりの悪い思いを
  した磯浜の、細長い海が、私にとって、
  一番なつかしい海ということになるので
  ある
。 〜『父の詫び状』(細長い海)より

この磯浜から桜島までは、4.2km あります。この距離を小学校高学年が2時間かけて泳ぎ切る行事が毎年、鹿児島市内の松原小学校と清水小学校で行なわれてます。この錦江湾横断遠泳の物語は、『チェスト!』という映画で映画化され(2008年春公開)、いま鹿児島県内各地で上映中です。
磯浜の細長い海 磯浜から見る桜島


吹上浜(日置市)
鹿児島に転勤したすぐの頃、小学二年の弟が冨迫君という同級生と仲良しになります。子供の友達などうるさがった父が、父親がなく母親と二人暮しの冨迫君だけは可愛がりました。

  
父は、父親を知らない自分を、親戚から
  村八分にあいながら、母親の賃仕事で大
  きくなった惨めな自分の少年時代を彼の
  上に重ねて見ていたのだろう。


初夏か夏の終わりの日曜日の一日、冨迫君を誘って、父が子供たちを吹上浜(ふきあげはま)に遊びに連れて行ってくれました。

 
 吹上浜は、薩摩半島の、鹿児島市の真裏
  にあたる砂丘である。真白い大小の砂の
  丘が、見渡す限りひろがって、その果て
  に波打ちぎわがあった。
    
〜『父の詫び状』(ねずみ花火)より。

吹上浜は、薩摩半島の東シナ海側にある砂丘で、日本三大砂丘の一つとされています。長さ約 47Kmの砂丘は日本一の長さで、吹上浜一帯は、1953年に県立自然公園に指定されました。
【引用および参考】
・向田邦子著『父の詫び状』(文春文庫、2006年2月新装版、495円)
・向田邦子著『眠る盃』(講談社文庫、1982年6月第1版発行、467円)
・向田邦子著『男(お)どき女(め)どき』(新潮文庫、昭和60年5月第発行、362円)
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