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旅行記 ・豊町御手洗の町並み − 広島県呉市豊町 2011.05
    ゆたかまちみたらい   .
豊町御手洗
(重要伝統的建造物群保存地区)
千砂子波止や高灯籠のある御手洗の風景
海に突き出た千砂子波止(ちさごはと)は、1828年に広島藩によって造られた江戸時代からの防波堤です。先端には、高灯籠に似せた灯台が設置されていて、中央に見える高灯篭とともに、御手洗のシンボル的風景を形作っています。狭い瀬戸を挟んで対岸は、岡村島(愛媛県今治市関前村)。
高灯籠と海に沿った家並み。江戸時代に建てられた船宿などが軒を連ねます。
男性シンガー・ソングライターのレーモンド松屋さんの歌う歌謡曲『安芸灘の風』では、貴方の好きだった御手洗の街並み〜♪”と歌われています。 『安芸灘の風』を聴く 
高灯籠と石造りの太鼓橋『すみよし橋』。写真手前にある住吉神社へ行き来するための橋です。
千砂子波止の根元に鎮座する住吉神社
  
千砂子波止の鎮守社である住吉神社(写真上)は、大阪の住吉大社を2分の一の大きさで再現した社殿で、堺の豪商『鴻池』から寄進されたものです。江戸時代に建てられたという三軒長屋(写真下)は、かつて旅人をもてなした船宿跡。現在、アート展示&カフェがオープンしています(写真上)。また、船宿跡では、御手洗最後の船大工の宮本国也さんが『おちょろ舟』の模型を作っていました。
御手洗
大崎下島の東端に位置し、幅狭の瀬戸を挟んで『安芸灘とびしま海道』の東端の岡村島(愛媛県今治市関前村)と向かい合う豊町御手洗地区は、江戸時代中期から明治初期にかけて、瀬戸内海の沖乗り航路の潮待ち・風待ちの港町として栄えたところでした。歴史的な町並みや貴重な歴史的・文化的史跡を有していることから、平成6年(1994年)に、国の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されています。
家々には季節の花が飾られています。
江戸時代に建てられたいう三軒長屋の船宿跡。現在はアート展示&カフェ
御手洗最後の船大工・宮本国也さんが製作中の『おちょろ船』の模型
『おちょろ船』は、上陸できない下級船員のために、遊女たちを停泊中の船まで運んだ船で、御手洗には昭和33年(1958年)まであったそうです。
『歴史の見える丘公園』から眺める来島(くるしま)海峡
歴史の見える丘公園 御手洗地区の重要伝統的建造物群保存地区の選定にあわせて、地区を見下ろせる高台に設けられた公園。御手洗や来島海峡、四国の山々が一望できるほか 、みかん畑の間を通る遊歩道からは四季折々の風情が楽しめます。また、公園には、江戸時代末期に至るまでの遊女・童子それにかかわる人たちの墓標が百基余り並んだ『おいらん公園』(写真左下)があります。
おいらん公園 
公園内のみかん畑から望む岡村大橋方面
遊女の塔
その昔、潮待ち風待ちの天然の良港に咲いた遊女たち「たのみます 華のこの世も 後の世も」の願いも空しく、故郷親元を離れてこの地に散り、桃の花咲く丘に葬られて、いつの頃から土に埋もれ、大樹の根にからまれて、陽の光を浴びることもなく幾星霜の間眠ったままの遊女たちの墓であった。 弁天社の丘の辺りの急傾斜防止工事の際、古く享保15年(1730年)頃から江戸時代末期に至るまでの遊女・童子それにかかわる人たちの墓が百基に余って発掘された。爾来その隣地に墓石を集め供養碑を建て回向をたむけた。
御手洗の家並みと観音崎 
この度人権思想啓発の一助にと多額の寄附の申し出があり、これを受けて早速「遊女供養碑建立実行委員会」を発足した。この趣旨に賛同する地元の人々を始め島外からも多数の方々の善意募金に依って、この地の土となった遊女を偲び、海の見える風光明媚なこの地を選定し、構想新たに移設した。
   
  名称は「重伝建選定記念公園」
          愛称は「おいらん公園」とす
       遊女供養碑建立実行委員会
           平成15年(2003年)10月吉日
  
    三弦に我を泣かせよ秋の風  樗堂
『おいらん公園』から眺める御手洗の家並みと島々の風景
若胡屋へ至る路地沿いに建ち並ぶ建物
御手洗最大の茶屋(遊廓)だった若胡屋(写真上の右)。左の建物は、『北川醤油醸造元』。
江戸時代、御手洗には4軒の茶屋(遊廓)があって、最盛期には300人の遊女を抱えていたそうです。その中でも若胡屋(わかえびすや)は、120人の遊女を抱え、西日本一に遊郭と言われていましたが、有名な『おはぐろ事件』など事件が多く起こので、90人に留め置かれたいたそうです。京都でしか見れない『おいらん道中』を御手洗で見ることがでみたと伝えられています。
入口に垂らされた浮世絵の暖簾
熊本藩の細川越中守などは一夜千金の金を落としたといわれています。またオランダ商館のフィッセンもここ若胡屋の酒席に列席したと日記に残しています。遊女たちは江戸の吉原や京都の島原と同じように高い教養もそなえていました。住吉神社造営のときに寄進した玉垣には、もろこし、みちのく、花むらさき、ひな巻、若桐など遊女の源氏名が刻まれています、この若胡屋には『おはぐろ』にまつわる遊女の悲しい物語があります。黒ずんだ壁の手形のあとは既に消えうせたが彼女たちのつれづれもみづくきの跡(筆跡、手跡)が二階の壁に残っていて、今に何かを語りかけているようです。豪壮な表造りの蓮子窓奥座敷の屋久杉の天井板、薩摩藩からもって来た桜島の溶岩を練り込んだ土塀、ヒョンの樹など、その昔の面影を今に残しています。境内に遊女「はなむらさき」の墓があります。
   
   夏草や島に悲恋の遊女墓  蚊居
(現地案内板より) 
 
若胡屋(わかえびすや)
ここは若胡屋という江戸時代の茶屋の跡です。御手洗は七里七島五里五島と呼ばれた広島県の島々の中でも古くから遊女の港として船人たちに広く知られ彼らの旅情を慰めてきたところです。北陸能登あたりから米を積んで瀬戸内海を航行する北前船(千石船)や四国・九州の諸大名の参勤交代の時の御座船をはじめオランダ商館員の江戸参府の途中、又は文芸人たちの来遊など数多くの船が寄港しました。享保〜宝暦(1716〜1763)の頃広島藩から免許をえた茶屋がこの町に当時四軒ありました。中でもこの若胡屋が一番大きく最盛期には百人以上の遊女をかかえていたといわれます。遊女の最高位である太夫(だゆう)のおいらん道中は三本ハマの黒塗下駄でべっ甲の三枚櫛や金銀のかんざし、刺しゅう入りのうちかけという豪華さで一対の箱提灯を先に禿(かむろ)がつきそっていたということです。
史跡 若胡屋
天満神社参道
菅公御手洗(おてあらい)の井戸 
金子邸
天満神社
御手洗という名の起りは、神功皇后が三韓侵略のとき、この地で手を洗われたということから、この名が付けられたといわれ、古くから神功皇后伝説がありました。明治に入ると御手洗の主人公は菅原道真へ移りました。延喜の昔(901年)菅公が太宰府に左遷されたとき、船をこの地に寄せ、天神山の麓のこのところで、口をすすぎ、み手を洗われ、天神地祇にお祈りされました。このところを菅公御手洗(おてあら)いの井戸(写真左)とし文筆の神にあやかって、正月の書初めは必ずこの若水を汲んで書いたそうです(現地案内板より)。天満神社本殿の下は横断できるようになっていて、願いを込めてくぐると願いが叶うといわれることから『可能門』(写真下)と呼ばれています。
本殿の下をくぐる『可能門』  
金子邸と御手洗条約
慶応2年(1866年)1月、坂本龍馬の仲介で、長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛との間で薩長連合が成立し、反幕府の勢力が強大となっていく時代背景のなかで、慶応3年(1867年)11月26日、7隻の軍艦と兵を率いた長州軍とこの御手洗で船に乗り込んで待っていた芸州軍が合流し、広島藩諸兵総督・岸九兵衛と長州藩家老・毛利内匠は金子邸宅で会談し、討幕のための約定(御手洗条約)が結ばれました。
江戸時代の家並みが保存されている常盤町通り。
常盤町通り 江戸時代の雰囲気を残す家並みが保存された通りで、『重要伝統的建造物群保存地区』のメイン通り。切妻や入母屋造りの白漆喰の塗込めの妻入り家屋が並んでいる。二階には大きな木格子の窓が付けられている屋もあります。
無料で公開されている旧柴屋住宅(写真中央の二階が白壁の家)
常盤通りのはずれにある旧柴屋住宅は、御手洗の町年寄役を代々勤めた高橋家の別宅で、伊能忠敬も宿泊したといわれ、土倉には伊能忠敬に関する資料が展示されています。
常盤通り通じる入口にある洋館造りの理髪店
一際目立つ、下見板張りの洋館建築・越智医院 
日本で一番古いといわれる『新光時計店』
 
乙女座
乙女座(写真下)は、御手洗に劇場がなかったことから昭和12年(1937年)に当時の建築の粋を集めて建てられたモダン劇場。戦後は昭和30年代まで映画館として親しまれていました。平成14年(2002年)現在の形に復元されました。花道や奈落、二階桟敷席が残されていて、大衆演劇、能、漫才、映画上映のなどの用途に、1,600円/時間で貸し出されています。席は畳敷きで、収容人員は 140人。
  
御手洗には、乙女座のほか、大正から昭和初期に建てられた洋館が古い街並みの中に点在しています。
乙女座 
新光時計店
『新光時計店(松浦時計店)』は、140年以上前から続く日本で最も古いと言われている明治時代からの時計屋。店内に置かれているアンソニア社(アメリカ)製の約2mの柱時計は、家を一軒売って購入したといわれている時計で、140年以上休みなく時を刻み続けています。『眠っている時計を起こしてあげませんか?』現在でも、”100%修理を目指し”、国産はもちろん海外製品、腕時計から大時計まで年代を問わず、幅広く修理を受け付けています。
御手洗港に面する通り沿いにも洋館風の建物が、右は、乗船券発売所
御手洗港に面する通り沿いに鎮座する蛭子神社
蛭子(えびす)神社 恵美須神社が商業の神として勧請され、商家の信仰を集めていることは、全国いたるところにみられます。御手洗の蛭子神社は、天文、寛保のころ(1735〜1742)豊前小倉からはるばる御神体を移したと伝えられており、いかにも港町御手洗にふさわしい話です。その昔、祭礼には、櫓、ダンジリが終夜、芸者を先頭に町中を練りまわり、地芝居やニワカなども催されたということで、近在近郷からも、沢山見物客がきて賑わったものでした。現在では、毎年7月の第4週(金・土)に三社祭り、蛭子神社、住吉神社、天神社で行われている櫓祭にその伝統が引継がれています。(現地案内板より抜粋)
蛭子神社の鳥居は、道路を越えて海に突き出してつられています。
 
〔補遺〕  ももへの手紙と豊町御手洗
『ももへの手紙』という長編アニメがあります。『ももへ』と一言だけ書かれた一枚の便箋。それは、行き違いからケンカしたまま事故で逝ってしまった父がももへ残した書きかけの手紙でした。父を亡くした小学校6年生のももは、母・いく子とともに、かつていく子が住んでいた瀬戸内の小さな島の港町『汐島』に移り住みます。しかし、父に心ない言葉をぶつけてしまったことを後悔するももは、島の生活にも馴染めず、周りの人とも打ち解けらずにいます。そんなももの元に、イワ・カワ・マメという3匹の妖怪が現れます。かれらの出現に当惑するももでしたが、彼らは『見守り組』という大切な使命があるのだといいます・・・。
 
国際的に注目を集めている沖浦啓之監督が、7年の制作期間をかけて完成させた感動の長編アニメーション。舞台は瀬戸内の小さな島の『汐島』という港町となっていますが、舞台のモデルとして描かれているのは御手洗や大長の風景や家並みです。
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