♪五木の子守唄
愛唱歌集
きじ馬を訪ねて − 熊本県人吉市
                        (
九州山脈から木を産し製品とする木地(きじ)師が作ったことからそう呼ばれるようになった九州各地の『きじ馬』は、東北のこけしに匹敵する郷土玩具といわれます。そして、熊本県人吉・球磨地方に伝わる『きじ馬』は、平家の落人たちが過ぎし都での華やかな生活を思い返すすべもない暮らしを慰めるため作り出したといわています。荒削りの桐木に、松の輪切りを車輪としたものに、くちなしの花や木の実などによる草木染めの紋様を施し、鮮やかに仕上げた玩具ですが、鮮烈な原色の色合いゆえに、どこかに哀しさも漂わせている感じがあります。人吉・球磨地方の『きじ馬』が最初に作られたという、鹿児島県との県境に近い山あいの大塚地区や木地屋など、『きじ馬』のモニュメントのある風景などを訪ねました。   (旅した日 2007年11月)


きじ馬街道

きじ馬街道

肥後(熊本県)と薩摩(鹿児島県)との国境は、標高730m余りの久七峠。今でこそ、全長約4kmのトンネルが開通していて、行き来が便利になりましたが、以前は難儀の峠越えでした。かつて独立圏とされた薩摩国に入る幕府の密偵のことを『薩摩飛脚』と呼んでいました。久七峠は、その薩摩飛脚を容赦なく斬ったという、薩摩藩の恐るべき国境でした。

久七トンネルを抜けて国道267号を人吉側に下るとすぐ通過するのが、大塚地区、そして木地屋(きじや)です。この付近の国道267号を『きじ馬街道』といい、道路端のところどころに、大きな『きじ馬』のモニュメントが置いてあります(写真上、下)。

九州各地の『きじ馬』は、東北のこけしに匹敵する郷土玩具といわれますが、このきじ馬街道の辺りは、人吉に伝わるきじ馬が作り始められたところです。


大塚と木地屋
大塚と木地屋

今から約800年前、壇ノ浦の戦いに敗れ、椎葉や五家荘などに落ちのびて来た平家一族の一部が、球磨の領主・矢瀬氏を頼ってこの人吉にやって来ました。しかし、平家に縁のある矢瀬氏が滅ぼされ、遠州(現在の静岡県)から下向して当地に入った源氏の地頭・相良(さがら)氏の世となると、頼りを失った落人たちは、更に逃げて人吉の南部の奥地、大塚地区や木地屋に永住しました。

しかし、心に去来するのは都の栄華の夢ばかり。過ぎし都での華やかな生活を思い返すすべもない暮らしの中で、慰めに作り始めたのが
『きじ馬』であり、『花手箱』『羽子板』であったといわれます。




〜 大塚地区は、戸数20戸余りの山あいの集落です(写真上)。木地屋(写真下)は文字通り、木をくり抜いて椀を作ることを専業とした木地師(きじし)たちの多くいたところでした。西大塚トンネルの入口にも『きじ馬』が描いてあります(写真左)。写真の道路はいずれも国道267号。 〜


きじ馬

きじ馬

荒削りの桐木に松の輪切りを車輪としたものにくちなしの花や木の実、青菜などの草木染めによる紋様を施した素朴な、それでいて鮮烈な色彩の玩具は、優れた芸術品となり、今に伝えられています。

そんな『きじ馬』の頭には、必ず『大』という字が書かれています。これは、大塚地区の製作者の家の養子になった若者が秘伝を盗んで逃げ去り、後世その罪滅ぼしと、養家への感謝をこめて、書くようになったものだとか、また一説には、京の都の大文字焼き(五山送り火)を偲び、幸運を祈って『大』の文字を刻んだといわれています。

現在は人吉球磨地方の伝統玩具のお土産品として、人吉市の
『宮原工芸』(人吉市)と『住岡きじ馬製作所』(球磨郡錦町)で製作されていますが、本来は大きなもので、男の子供たちが牽(ひ)いたり、馬乗りになって坂を下ったりして遊ぶ玩具でした。


〜 上と右の写真は、宮原工芸さんで撮影させてもらったものです。写真下は、人吉クラフトパーク石野公園の工芸館にて撮影。 〜



人吉クラフトパーク石野公園
人吉クラフトパーク石野公園

昭和45年(1970年)頃まで人吉の通りでは、旧暦2月のえびす市など市が開かれ、戸板の上にきじ馬や花手箱がずらりと並びました。多くの人が幼子を連れて訪れ、男の子にはきじ馬、女の子には花手箱・羽子板を土産にしたといわれます。

人吉の伝統工芸品や特産品を、展示と実演で紹介する体験型のクラフトパーク『人吉クラフトパーク石野公園』(写真上)は、武家屋敷風の外観で、伝統工芸展示館・陶芸館・導遊館・鍛冶館・民工芸館・木工館焼酎館・茶室・展望所などの施設があり、『きじ馬』や『花手箱』の絵付けなどの体験ができます。


     元気な子きじ馬を牽け七五三    
     きじ馬をねだる背の子やえびす市  ワシモ



〜 公園内では、『きじ馬』や『花手箱』、『羽子板』などが販売されています(写真右、下)。〜


晩秋の田野高原

田野高原

帰りは、鹿児島県へ越える久七峠はトンネルを通らず、旧道を田野高原にあがってみました。田野集落は、久七峠に近い標高700mの、熊本県側最後の集落で二十数戸ほどが暮らしています。

昔、大塚小学校の田野分校だった学校は、いま田野小学校と格上げになっていました。そのかわり、大塚小学校が休校になっていて、大塚の子供たちも田野小学校まで通っているそうです。昭和42年頃の高校時代、鹿児島県の大口市内の高校から
田野高原まで片道18kmの道を強歩大会で歩いて往復した想い出があります。想い出もすすき野もすっかり暮色いろの田野高原でした(写真上)。

    
 分校に合唱の声冬隣  ワシモ

南九州にも
北国を想わせる雰囲気の校舎があったのです(写真下)。その校門の影にひそむかのように、『きじ馬』が置かれていました(写真右)。

    
 猪喰ふや億光年の星の下  ワシモ


【編集後記】

『きじ』は木地か雉


九州山脈から木を産し製品とする木地師が作ったことから『きじ馬』と呼ばれるようになりましたが、鳥の雉と思うのは、あながち勘違いでもないようです。きじ馬が、やがて里の子供たちの遊び道具へと広まっていき、商品化され市で売られるようになると白木のもの(写真左)に彩色されるようになりました。そして、『きじ馬』が文字としてではなく、話し言葉として伝えられ、この辺りから、木地と雉の二つの意味合いが生じたと思われ、今もこの辺りが非常に曖昧に伝えられているということのようです。そして、きじ馬は実際、鳥の雉を模して作られています。

雉(きじ)料理店


国号267号の大塚地区と木地屋の中ほどの道路端に雉料理を出している『きじや』というお店があります。2000羽の雉を飼育し、料理に出しているそうです。きじ馬、あるいは木地屋に由来があるのかどうか、わざわざ店に入って聞いてみたところ、何の関係もないそうです。今度、料理を頂きに伺いますとお礼を述べ店を出ました。

【DATA】
■伝承蔵 宮原工芸/所在地:〒868-0085 人吉市中神町512-2 TEL 0966-23-3070
■住岡きじ馬製作所 /所在地:〒868-0303 球磨郡錦町104-1 TEL 0966-38-1020
きじ馬は、ネット販売もされています。 → http://www.rakuten.co.jp/kumayoka/704851/


 人吉城址・青井阿蘇神社  犬童球渓の生家を訪ねて 

あなたは累計
人目の訪問者です。
 
Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.