♪五木の子守唄
愛唱歌集
人吉城跡と青井阿蘇神社− 人吉・球磨を訪ねて(1)
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『人吉・仲よし・こころ良し』。人々は、人吉・球磨地方の気質を称してこう呼びます。四方を九州山地の山々に囲まれたこの地方は、明治43年(1910年)に肥薩線が開通するまでは、まさにかくれ里の名にふさわしい山峡の地でした。内部抗争など紆余曲折はあったものの、その隔絶された地理的要因ゆえに外部から大きな侵略を受けることなく、建久9年(1198年)、源頼朝の命をうけて、遠州(現在の静岡県)から初代・相良(さがら)長頼が着任して以来、明治維新までの約700年の長きにわたって改易なしで相良藩一藩による統治が続きました。この特異な地域性は、草深い山里におだやかで大らかであたたかな気性を醸成し、独自の仏教文化圏を形成したと言われています。人吉・球磨地方の旅行記をシリーズでアップロードします。第一回は、人吉城跡と青井阿蘇神社です。 
                                       (旅した日 2005年10月)
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球磨川
清流・球磨川の中流域に広がる人吉盆地は、一年のうち100日以上が乳白色の深い朝霧に覆われるといわれます。訪れた日は、霧もすっかり晴れ、雲ひとつ無い快晴の天気に恵まれました。ダム建設問題で揺れる支流・川辺(かわべ)川が、この写真のすぐ上流で球磨川に注ぎ込んでいます。

人吉城跡
平氏滅亡後、源頼朝は全国支配強化のため平氏の影響の強かった西国には東国の武将を地頭として下向させました。建久9年(1198年)、人吉荘の地頭職に任命されたのが、遠州相良荘(現在の静岡県榛原郡相良町)の相良長頼でした。長頼は、平頼盛の家臣ですでに当地に城を構えていた矢瀬主馬佑が反抗したので、これを謀殺し、その城域を拡張して人吉城を築きました。以来、相良氏35代の居城となりました。人吉城築城の時、三日月の紋様の入った奇石が出土したので繊月(せんげつ)城、あるいは三日月城とも呼ばれました。

今は、石垣、土塁、郭跡、復元多門櫓・長塀・隅櫓が遺構として残り、往時の面影を伝えています。人吉城跡の紅葉へ 


青井阿蘇神社(国宝)

『球磨で名所は青井さんのご門』と唄われている青井阿蘇神社は、JR人吉駅近くの約3000坪の境内に本殿、幣殿、拝殿、桜門などが建てられていて、2008年(平成20年)に国宝に指定されました。大同元年(806年)の創建といわれていますが、現在の建物は、慶長18年(1612年)相良藩主第20代相良長毎公が再建したものです。

桜門
建物の全体構造は、鎌倉時代のものですが、建築様式は安土桃山時代のものが取り入れられて、壮大な風格をもっています。特に茅(かや)葺き屋根の社殿・桜門は球磨の長い歴史・文化を感じさせます。


球磨焼酎蔵元
寒暖の差の大きい自然環境で育った良質の米と清冽(せいれつ)な水で作られる球磨焼酎は、500年の歴史を持っています。球磨焼酎は、日本で初めて『地理的表示を保護する法律』による産地指定を受け、ワインのボルドーやブランデーのコニャック、ウィスキーのスコッチのように『球磨』という原産地を焼酎名に冠することのできるブランドとなっています。現在、28の醸造元で約160種の銘柄がつくられています。球磨焼酎のサイトへ 


からくり時計台
人吉の新名所、JR人吉駅前の『からくり時計』は、一日に6回〜7回定刻になったら扉が開いて、太鼓の音と球磨地方の民謡・六調子に合わせて殿様人形などが現れます。



下記のページも併せてご覧下さい!

旅行記 ・永国寺(幽霊寺) −  人吉・球磨を訪ねて(2)
旅行記 ・紅葉の新宮寺 − 人吉・球磨を訪ねて


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