永国寺(幽霊寺)− 人吉を訪ねて(2)
                      
『人吉・仲よし・こころ良し』。人々は、人吉・球磨地方の気質を称してこう呼びます。四方を九州山地の山々に囲まれたこの地方は、明治43年(1910年)に肥薩線が開通するまでは、まさにかくれ里の名にふさわしい山峡の地でした。内部抗争など紆余曲折はあったものの、その隔絶された地理的要因ゆえに外部から大きな侵略を受けることなく、建久9年(1198年)、源頼朝の命をうけて、遠州(現在の静岡県)から初代・相良(さがら)長頼が着任して以来、明治維新までの約700年の長きにわたって改易なしで相良藩一藩による統治が続きました。この特異な地域性は、草深い山里におだやかで大らかであたたかな気性を醸成し、独自の仏教文化圏を形成したと言われています。人吉・球磨地方の旅行記をシリーズでアップロードします。第2回は、『幽霊の掛軸』で有名な永国寺訪問です。 
                                      (旅した日 2005年10月)


永国寺
幽霊寺として有名な永国寺の歴史は大変古く、室町時代初期の応永15年(1408)に実底和尚による開山といいますから、今から約600年前の創立になります。また、この寺は、田原坂(熊本県)で敗れて人吉に入った西郷隆盛が薩軍本営に定めた寺としても知られています。



仁王門
最近、楼門が改築され、仁王門として再建されました。両脇には身の丈2mもある木彫の仁王像がにらみをきかしています。また、二階部分には、梵鐘(ぼんしょう)が架けられていて、諸行無常の響きをたたえています。



西郷本陣跡記念碑
明治10年、田原坂で敗れた西郷隆盛は八代(やつしろ)より当地に逃れ、古くより要害の地である人吉によって官軍を防ごうとした。当時、すでに繊月城(人吉城)は取り壊されていたので、当永国寺に本営を設け、桐野利秋ら参謀諸将が日夜、策を練った。4月27日に人吉へきてより33日間、官軍を防いだがついに5月29日、西郷隆盛は加久藤(かくとう)峠を越え小林へ逃れた。その時に、当寺もことごとく灰燼(はいじん)に帰した。寺宝等もあらかた燃えてしまったが、その時に焼け残った一つが当寺の幽霊の掛軸である。この碑は、西郷本陣跡を記念して海軍大将山本善輔が揮毫したものである。〜という説明が写真の案内板にあります〜


幽霊の掛軸
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幽霊が出たという池
幽霊が出たという池(上の写真)は今も本堂裏にあります。湧水池で、春にはつつじや海棠など、夏にはすいれんなどが咲き乱れ、四季の変化を楽しむことができます。


千人塚石塔(耳塚)
『朝鮮出兵で秀吉は、諸大名に手柄の証拠として討ち取った敵兵の耳鼻をそぎ落とし塩漬けにし、目録を提出するように命令する。相良20代頼房も耳鼻1800を秀吉に進上した。この石塔は、その霊を鎮めるためのものと伝わる。元は門前の千人塚に建てられていたものである。』 と案内板にあります。


人吉城跡へ
永国寺の門前をまっすぐ行くと人吉城跡です。


下記のページも併せてご覧下さい!

旅行記 ・人吉城跡と青井阿蘇神社 −  人吉・球磨を訪ねて(1)
旅行記 ・紅葉の新宮寺 − 人吉・球磨を訪ねて


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