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旅行記 ・彦根城 − 滋賀県彦根市 2016.02.28
彦根城
佐和口といろは松
佐和口といろは松 彦根城の4つある城門の一つが表門に通じる『佐和口(さわぐち)』で、佐和口へ向かう沿道の松並木は『いろは松』と呼ばれています。第2代藩主直孝の時に植えられた松で、当時は『いろはにほへと・・・』と47本あったので、この名称で呼ばれるようになりました。現在は34本(うち12本は補植)が残り、当時の面影を偲ばせています。
佐和口多聞櫓(佐和口の右手。再建によるもの)
佐和口多聞櫓 (さわぐちたもんやぐら) 佐和口の左右に見えるのが佐和口多聞櫓。向かって左手に見える櫓は、明和8年(1771年)に再建されたもので、重要文化財に指定されています。一方、右手に伸びる長大な多聞櫓は昭和35年(1960年)に開国百年を記念して復元されたコンクリート造りの建物で、現在は開国記念として使われています。
天秤櫓と廊下橋
天秤櫓 (てんびんやぐら) メインゲートである表門から石段をのぼると迫力ある石垣と櫓(やぐら)、そして大きな橋(廊下橋とよばれ、非常時には落とし橋となる)が見えてきます。この部分は、彦根山の尾根を断ち切るように構築された大きな空掘で『堀切(ほりぎり)』と呼ばれます。この櫓は、大手門と表門からの道が合流する要(かなめ)の位置に築かれた櫓です。
天秤櫓
この櫓は上から見ると『コ』の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。日本の城郭でこの天秤櫓の形式のものは彦根城だけだです。廊下橋がなければ、天秤櫓の高い石垣をよじ登らないことには『堀切』から本丸方面へは侵入できないことになります。
天秤櫓
牛蒡(ごぼう)積みと落し積み 天秤櫓の石垣は、廊下橋を境にして向かって右手(東側)と左手(西側)で石垣の積み方が異なります。向かって右手が築城当初からの『牛蒡積み』(胴長な石を用い、短径面を前面に出す積み方)の石垣で、左手が嘉永7年(1854)の修理の際に積み直された『落し積み』(石を落とし込むような積み方)の石垣だそうです。
フリ野点傘(左手に時報鐘と聴鐘庵)
時報鐘と聴鐘庵 太鼓門へ上り着く手前に野点傘(のだてかさ)が見えます。この左手にあるのが『時報鐘』(じほうしょう)と『聴鐘庵』(ちょうしょうあん)。12代藩主井伊直亮の弘化元年(1844年)に鋳造した鐘(かね)が、当初あった鐘の丸からここに移設されたもの。現在は、1日5回(午前6時、9時、正午、午後3時、午後6時)つかれているそうです。
太鼓門
時報鐘の菅理棟を改造した茶屋が聴鐘庵。大老・井伊直弼は、『埋木舎』での部屋住み時代より文武諸芸に親しみ、茶湯に深く傾倒しました。『一期一会』の茶会に相対する主客の心得を詳しく記した『茶湯一会集』にはその境地が示されているそうです。この精神をしのび、聴鐘庵で薄茶の接待がされています。
太鼓門櫓
太鼓門櫓(たいこもんやぐら) 本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓です。門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではないそうです。
天守(国宝)
天守(国宝)天守は、3階3重の天守です。比較的小振りですが、屋根は『切妻破風(きりづまはふ)』『入母屋破風(いりもやはふ)』『唐破風(からはふ)』を多様に配しており、2階と3階には『花頭窓(かとうまど)』、3階には高欄付きの『廻縁』を巡らすなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。
天守(国宝)
一刻も早い築城が望まれた彦根城の建築には、佐和山城をはじめ、小谷城、長浜城、大津城などといった近隣の旧城郭の石垣や建造物が使われました。彦根城の天守は、関ヶ原の戦いで西軍の攻撃に耐えた大津城の天守を解体し、その材木や瓦などを移して造られたといわれています。
天守(国宝)
彦根城の歴史 徳川四天王(徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称)の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により徳川家康より18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城しました。
天守の内観(木造建築)
しかし、直政は佐和山城が中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、琵琶湖岸に居城することを計画します。直政が関ヶ原の戦いで受けた戦傷がもとで1602年に死去すると、その夢は家督を継いが直継と直孝によって引き継がれ、幕府の全面的な協力のもと、1604年から彦根城の築城が開始されました。
天守の内観(木造建築)
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年2期までの工事が完了、1607年頃には天守が完成し直継が入城した。1616年彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年すべての工事が完了し、彦根城が完成した。
天守の内観(木造建築)
その後、井伊氏は加増を重ね、1633年には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。このうち、松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守が国宝となっています。天守のほか附櫓および多聞櫓(1棟)が国宝に指定されています。
天守の内観(木造建築)
また、天秤櫓、太鼓門及び続櫓(1棟)、西の丸三重櫓および続櫓(1棟)、二の丸佐和口多聞櫓、馬屋が国の重要文化財に指定されています。明治維新が始まり廃城令が公布されると彦根城も解体の危機にみまわれましたが、明治天皇の北陸巡幸に同行した大隈重信が、彦根城に立ち寄り、その消失を惜しみ、天皇に保存を願い出たところ、解体が中止されたといわれています。
天守から太鼓門へ
いいなおすけ
井伊直弼
埋木舎への案内板
井伊 直弼(いい なおすけ) 文化12年(1815年)〜安政7年(1860年)。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もある)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行しました。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清しましたが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺されました(桜田門外の変)。
『埋木舎』のある中堀沿い
文化12年(1815年)に、第13代藩主・井伊直中の十四男として彦根城の二の丸で生まれます。母は側室のお富。兄弟が多かった上に庶子であったこともあり、養子の口もなく、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしました。
 
『埋木舎』(Wikipedia(作者:あばさ)より借用) 
この間、近江市場村の医師である三浦北庵の紹介で、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのやと名付けた邸宅で世捨て人のように暮らしました。ところが、弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定します。
井伊大老歌碑
【参考サイト】 
(1)彦根城 - Wikipedi
(2)国宝・彦根城築城400年祭公式サイト
(3)彦根城 - 彦根観光ガイド : 公益社団法人 彦根観光協会

(4)井伊直弼 - Wikipedia
 
   」レポート ・埋木舎(うもれぎのや)
   
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