♪Prologue
KasedaMusicLabo
磁器のふるさと・有田を訪ねて−佐賀県有田町
                        (
やきものには、陶器と磁器があります。陶器類は土器や須恵器(すえき)など、日本に昔からありましたが、磁器は中国だけが作り出せるやきもので、当時の陶工たちの憧れの的でした。慶長の役の際に、日本に連れて来られた朝鮮人陶工・李参平が1616年に、有田の泉山(いずみやま)に陶石を見つけ窯を開いたのがわが国の磁器製造の始まりでした。そして、白磁の上に柿の実のような赤色を出す『赤絵』の技法が酒井田柿右衛門によって確立されると、有田の磁器はヨーロッパの王侯貴族の絶大な人気を得、多くの有田焼が輸出されるとともに、ドイツのマイセン窯などにも影響を与えました。伝統的建造物群保存地区(製磁町)に定められ、400年の歴史が今に息づく磁器のふるさと有田を訪ねました。         (旅した日 2005年11月)


大いちょう(天然記念物)
有田の大いちょう
  市街の東外れの近くにある泉山弁財天社境内のいちょうは、樹齢約1,000年、高さ30m、根回り11.6mの直幹型の雄株の大いちょうです。佐賀県内で一番の巨木で、国の天然記念物に指定されています。 住宅街の中に頭一つ突き出していて、初夏にはまばゆい新録が、晩秋には、あざやかな黄の紅葉が有田のシンボルの一つになっています。

  いちょうは病害虫に強く、青葉は火に耐えると言われます。文政10年(1828年)、西九州を襲った台風に煽られ、有田皿山の1,000軒のうちの約850軒を焼失する大火災が起きました。そのとき、この大いちょうの下にあった池田伝平窯と背後の年木谷の窯は、いちょうの枝に抱かれていたため、焼失をまぬがれたと言われています。


トンバイ塀のある裏通り
トンバイ塀
  弁財天社の大いちょうから西へ、有田陶磁美術館までのなだらかな下りの細道には、トンバイ塀があり、焼物の町らしい風情を醸し出しています。トンバイとは、登り窯を築くのに使ったレンガのことです。レンガは、窯がたかれるうちに薪の灰をかぶり高温を浴びて、表面がガラス質に変化し、微妙な色合いになります。このトンバイや使い捨ての窯道具のハマ・トチンを赤土で固めて、築いた塀がトンバイ塀です。

  江戸時代、商人が町すじに店を構えていたのに対し、窯焼は本通りからはずれた人通りの少ない場所に住み、屋敷と仕事場をトンバイ塀で囲み製陶技術の秘密を守ろうとしたのだそうです。


有田焼の歴史(発祥〜古伊万里〜色鍋島)
日本の磁器の発祥
  佐賀・鍋島藩は、慶長の役(1597〜1598年)から引き揚げる際に、朝鮮人陶工・李参平を日本に連れ帰りました。李参平は、初期の頃、現在の多久(有田から東北へ20数kmのところ)に住み、陶器を焼いていましたが、それに満足できず、磁器の原料を探す旅に出ます。そして、1616年、
有田の泉山に陶石を発見しました。これが有田焼の歴史の始まりだといわれます。磁石鉱の発見以降、数10年間で有田の窯業は急速に発展を遂げていきます。磁器の生産が盛んになると、やがて燃料用薪の乱伐が問題となりました。有田では、慶長の役より前の文禄の役(1592〜1593年)の際に連れて来られた朝鮮人陶工などが陶器を焼いていましたが、鍋島藩は山林保護の目的で陶器窯を廃止し、磁器中心の生産体制を確立させました。

赤絵と古伊万里
  その後、1640年代に、酒井田喜三衛門(初代柿右衛門)によって『赤絵』の技法が始められ、苦労の末、
白磁の上に柿の実のような赤色を出すのに成功しました。そして、この頃になると、中国の磁器とかわらないものも出来るようになります。やがて、分業の生産体制が確立され、上絵の調合と赤絵焼成を行う『赤絵屋』は、それを営業できる軒数が制限されたばかりでなく、技法や技術が外にもれないように藩によってきびしく監視されました。赤絵屋の多くが住んでいた地域が『赤絵町』です。

  中国国内の混乱によって中国からヨーロッパへの磁器輸出ができなくなったオランダ・東インド会社は、1650年に、有田焼の輸出を始めます。
  中国風のデザインとは全く異なる豪華絢爛たる柿右衛門様式は、ヨーロッパの王侯貴族の絶大な人気を得、輸出は増大します。 ヨーロッパでは、有田焼のような磁器はまだ作られていなかったので、非常に高価な貴重品として扱われました。有田焼は、伊万里港から積み出されたことから当時は、『伊万里焼』と呼ばれました。現在でも、当時の有田焼を『古伊万里』と呼ぶゆえんです。

  しかし、18世紀に入るとヨーロッパでも磁器製造が始められ、ドイツのマイセン窯や、フランスのシャンティー窯、イギリスのチェルシー窯で、柿右衛門様式の写しが作られるようになります。

色鍋島と今泉今右衛門窯
 一方、藩主や幕府へ献上する最上級の磁器を製作する鍋島藩窯は、有田から現在の伊万里市大川内山(おおかわちやま)へ移りました。但し、秘密性の高い上絵の調合と赤絵焼成に関しては、有田の赤絵町で行われていました。その御用品の絵付けに携わっていた赤絵屋が、今泉今右衛門でした。このようにして生産された、格調の高い洗練された製品群が、後に
『色鍋島』と呼ばれるようになったもので、色鍋島は、今泉今右衛門窯で、その伝統が今に受け継がれています。






           ■今泉今右衛門窯(写真右)


近代、現代への流れ
  1828年に起きた文政の大火災によって、壊滅的な打撃を受け、多くの陶工たちが波佐見や三川内(いずれも長崎県)など周辺の磁器産地に移住し、結果として肥前地区全体の陶磁器製造の技術が向上したのではないかと言われます。

  明治維新以後になると、西洋の新技術が積極的に取り入れらていきます。有田に招聘されたドイツ人ワグネルは、酸化コバルトや西洋絵具の使用法を教えます。明治11年(1878年)、パリ万博に参加した深川栄左衛門は製陶機一式を購入し、機械による生産を試みています。明治中期には、従来の柞灰釉(ゆうばいゆう)にかわる石灰釉の使用もはじまり、有田は、日本陶業界をリードする新技術を導入し、近代産業としての基盤を築いていきました。

■香蘭社(写真左)
  明治35年、天草陶石を原料とした製品の品評会において出品が認められることとなり、現在では、泉山陶石はタイルや耐酸磁器などの一部の原料として使われているのみで、食器等に関しては天草陶石が有田焼の主原料として使用されているそうです。

  深川栄左衛門が当時選りすぐりの陶工や絵付師、陶商達を一つにまとめて作った結社が
『香蘭社』で、宮内省御用達になっています。栄左衛門の次男・深川忠次によって、1894年(明治27年)に設立されたのが『深川製磁』で、同じく宮内省御用達です。




               ■深川製磁(写真右)
  トンバイ塀通りにある 『岩尾磁器工業』は、享保年間(1620年代)に築窯された大樽窯をルーツに1921年(大正10年)に設立された会社で、現在は、磁芸品・美術陶磁器の製造販売のほか、化学工業用セラミックスなど工業用の製品を製造しています。













■岩尾磁器(写真左)
異人館(県文化財指定)
  安政以来、外国貿易に従事してきた田代紋左衛門は、1860年になると藩公よりの貿易「一枚鑑札」を手にし、有田焼輸出の利権を占有します。その独占権を活用して長崎・出島に商館を設け、横浜・上海・ニューヨークにまで進出しました。そして、欧米人の間で絶大な信用を得、巨利を得ました。
『異人館』は、そのような時期、陶磁器の買付けに訪れた外国人の宿泊・接待所として紋左衛門の長男・助作によって1876年(明治9年)建てられたものです。外国人の往来をしのぶ貴重な遺構となっています。





                   ■異人館(写真右)


泉山六地蔵
トンバイ塀を背後にして並ぶ泉山の六地蔵さん。泉山弁財天社を少し下ったところにあります。
                            【参考にしたサイト】      
日本磁器発祥の地 有田町役場
日おんなの有田皿山さんぽ史
香蘭社ホームページ
深川製磁(株)ホームページ
 レポート ・陶器と磁器
あなたは累計
人目の訪問者です。
 
Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.