レポート  ・日月潭と水力発電   
− 日月潭と水力発電 −
日月潭(にちげつたん)は、台湾本島中央部に位置する台湾最大の淡水湖であり、台湾で最も秀麗な高山湖です。海抜760m、面積 100平方km、周囲37km。湖の北側が太陽(日輪)の形、南側が三日月の形をしていることからこう呼ばれるようになりました。
  
風光明媚な日月潭は、国立風景区に指定されています。日月潭から見る夕日は特に美しいと言われ、また日月潭で見る秋の月は『双潭秋月』と呼ばれ、台湾八景のひとつに数えられているそうです。
  
湖畔には、文武廟や玄奨寺などの見どころもあって、日月潭は台湾を代表する観光名所の一つとして知られています。そして、もう一つ興味深いのが、この湖が台湾の水力発電量の半分以上をまかなっている水力発電の水瓶だということです。
  
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日本統治時代の大正8年(1919年)4月、台湾総督府(当時の総督は第7代の明石元二郎)は、台湾の商工業発展に必要な電力を確保するため台湾電力株式会社を創立し、同年8月に日月潭を選び、水力発電工事に着工しました。台湾で最も長い河川である濁水渓(だくすいけい)にダムを造り、全長15kmの地下導水路で水を引いて日月潭に貯水し、有効落差329mの水力で発電機を動かして電力を得ようというものでした。
 
工事を進めるに当たり、日本人はまず工事に必要な物資を運送するための全長29.7kmの鉄道を建設しました。これが、今、日本のローカル線以上にノスタルジックな雰囲気を味わえる路線として注目されている『集集線』(しゅうしゅうせん)です。さらに、日本人は工事に必要な電力を供給するための水力発電所を先に建設しました。
 
こうして日月潭水力発電工事は着工したものの、第一次世界大戦(1914〜1918年)後の経済不況で物価は上昇、加えて日本では関東大震災(1923年9月1日)が起こって、経済大恐慌になってしまいました。この不況の影響で途中、計画の中断を余儀なくさました。この期間に、日本人は何度も工事再開を試みましたが、日月潭の発電所工事は経費不足の理由によって十年あまり遅れてしまいました。
 
昭和4年(1929年)、資本金を集めるための社債の発行を提案し、これが日本政府に認められ、昭和6年(1931年)に外債が成立して資本金が集まったので、同年10月にようやく工事が再開されました[1]
 
工事は難航を極めたそうです。湿気の多い熱帯雨林の環境下で、マラリア、アミーバ赤痢、ツツガムシなどの被害は想像以上でした。担架で山を降りる患者が列をなし、病院は患者で一杯になったそうです。最初の1年は、 100万円(今の約50億円)の投資額に対して出来高は皆無だったそうです。
 
そこで、工事を中断して環境整備が始められました。マラリアを媒介する蚊を根絶のために周囲の山を燃やし、宿舎の周りには草を生やさず、窓には二重網戸をし、売店や娯楽設備を完備し、日本・朝鮮・台湾料理の店を設け、鹿島神社を造営し、直営病院を増やすなど、環境整備を優先させました[2]
 
こうして、日月潭水力発電工事は昭和9年(1934年)6月に完成し、同年9月に発電を開始しました。着工から15年後のことでした。発電所は『日月潭第一發電所』と命名され、戦後の1948年7月に『大観水力発電所』と改名。現在、日月潭の水を利用した発電量は、台湾の水力発電全体の56%を占めているそうです。
 
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日月潭はもともと小さな湖でしたが、水力発電工事によって濁水渓から水を引いた結果、水位が上昇して現在の大きさになりました。小山であったところが水に埋もれて数々の島ができ、美しい景観を呈するようになりました。
 
日月潭北側の河畔に位置する観光名所・文武廟は、日月潭水力発電工事と深いかかわりがあります。1932年に、日月潭の水位の上昇によって水没の危機に瀕した湖畔の龍鳳廟と益化堂のという二つの廟を合併し、1938年に今の場所に完成させたのが文武廟です。その後、1969年から1975年にかけて全面修築が行われました。
 
下記の旅行記があります。
■旅行記 ・日月潭、文武廟と宝覚寺 − 台湾の旅(3)
 → http://washimo-web.jp/Trip/Taiwan03/taiwan03.htm
 
【参考にしたサイト】
[1]ダムの建設 - 日月潭風景區
[2]鹿島の軌跡 | 第8回 日月潭
  

2010.07.28  
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