レポート  ・大刀洗平和記念館のこと   
− 大刀洗平和記念館のこと −
特攻基地として知られた知覧飛行場(鹿児島県)は、元々は、大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校(福岡県)の分校でした。知覧特攻平和会館の『知覧教育隊之記念碑』から碑文を一部転載してみます。
 
『大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊(当初分教所)は、昭和16年末知覧飛行場の完成を待って創立、先ず第10期少年飛行兵の教育を開始、以後、少年飛行兵、下士官学生、特別操縦見習仕官等が相次で入隊、猛烈な教育訓練の下、数多の飛行機操縦者が巣立った処である。然るに教育期間僅か2年9ヶ月にして戦局の推移と知覧飛行場の地理的戦略的関係により、昭和19年9月、町民の念願も空しく教育隊は解隊、その前後に隊員は京城を初め、内外の各教育隊に転属、後には飛行戦隊が駐留、昭和20年には遂に特攻の基地と化した。』〜以下省略
 
分校であった知覧には資料館(知覧特攻平和会館)があるにもかかわらず、本校の大刀洗には何もなったことから、当時無人駅化のため取り壊される予定になっていた甘木鉄道太刀洗駅駅舎を利用し、1987年(昭和62年)4月、個人によって開設され運営されてきたのが『大刀洗平和記念館』でした。その22年におよぶ私的な活動は行政によって引き継がれることになり、2009年(平成21年)10月、新たに『筑前町立大刀洗平和記念館』がオープンし、現在に至っています。
 
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今から36年前の1974年(昭和49年)頃、現福岡県朝倉市で建設業を営んでいた渕上宗重さん(1931年生れ)は、自然を撮るのが趣味で、カメラクラブの仲間数人と知覧方面に撮影旅行に出かけました。その時は特攻基地のことなど全く念頭になかったそうです。
 
生憎雨になって写真を撮るどころではなくなったので、帰ろうということになり、小屋のような建物に駆け込みました。そこで偶然、”大刀洗陸軍飛行学校の分教所”と書いた看板を目にし、こんなところに自分が住んでいる大刀洗の分教所があったのだということに衝撃を受けます。
 
小屋の中には写真を引き伸ばしたのがあって、五十歳前後の男の人が、『これは私に似ているでしょう、私です。これは特攻の仲間の写真で、皆死んでしまいました。私は特攻の生き残りで、全国を回って特攻隊員の遺影や遺品を集めて、ここに展示し、お参りをしています』というような話をしてくれたそうです。
 
渕上さんに話をしてくれた男の人は、その後知覧特攻平和会館の初代館長になる板津忠正さんでした。当時、板津さんは、郷里の名古屋で市役所に勤務するかたわら、1973年(昭和48年)頃から、全国の同期生の遺族を訪ね歩き、遺品を収集しては基地のあった知覧に展示し、慰霊を続けていたのでした。
 
その後、1978年(昭和53年)3月、知覧公園休憩所の一角に『知覧特攻遺品館』が出来ると、板津さんは集めた遺品や遺影を遺品館に寄贈しますが、八畳一間くらいの小さな遺品室は、年々増える観覧者や遺品収集で手狭となり、1987年(昭和62年)に知覧町(当時)のまちづくり特別対策事業の一環として、現在の『知覧特攻平和会館』が新しく建てられたのです。
  
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旅行から帰った渕上さんは、本校だった大刀洗陸軍飛行学校の資料館をつくらなければいけないと、当時の関係市町村に働きかけますが、そのような施設を公の行政がつくれる雰囲気ではないと断られます。
 
そうこうしているうちに、1985年(昭和60年)、国鉄甘木線が廃止になり、第三セクター方式の甘木鉄道として引き継がれることになりました。それに伴い無人駅化のため取り壊される予定になっていた大刀洗駅駅舎を、維持管理や修理は自分で行うことを条件に無償で借り受け、渕上さんは、1987年(昭和62年)4月、私設記念館として『大刀洗平和記念館』を開設しました。以後、渕上さんは特攻隊員の遺書や遺品などを集めて回ることになります。
 
1996年(平成8年)、博多湾から一機の旧陸軍九七式戦闘機が引き揚げられました。搭乗者は、鳥取県淀江町出身の渡辺利廣陸軍少尉だったことが判明。沖縄戦への特攻出撃を命じられ、旧満州公主嶺から鹿児島県の知覧飛行場に向かう途中、雁の巣沖に不時着したものでした。その後、同少尉は別の九七式戦闘機により知覧基地から沖縄に特攻出撃し戦死されました。
 
この旧陸軍九七式戦闘機は機体発見後、九州各地の戦争資料展示施設から引き取りの希望が相次ぎましたが、大刀洗飛行場ゆかりの地、甘木市、旧三輪町(現筑前町)、大刀洗町の一市二町に引き渡されることになりました。
 
解体修理・復元にどれぐらいの費用がかかるものか飛行機メーカに見積依頼したところ、1億〜 1.5億円という金額だったそうです。それなら、その十分の一の費用で自分たちでやろうということになりました。当時渕上さんは建設業をやっていました。機体を旧高木中学校プールに浸し塩分等の除去を行い、エンジン部分は解体清掃・修復して、大刀洗平和記念館に搬入。1997年(平成9年)8月、一般公開しました。
 
そうこうして、少年飛行兵の遺影や特攻隊員の遺書、九七式戦闘機など約 2,000点が集まりましたが、開館後10年間ほどはほとんど来館者がなかったそうです。それでも記念館をやめるわけにはいかなかった。というのは、遺族から寄せられた少年飛行兵の遺影が 130枚ほどになっていて、遺影ばかりは預かった責任が重かったと渕上さんはおっしゃいます。身代わり観音を安置して、朝夕供養をされて来たそうです。
 
九七式戦闘機や遺影、遺書など、資料は『筑前町立大刀洗平和記念館』に移されました。また、新館開館に伴い、飛行機愛好者でつくる『福岡航空宇宙協会』が所有していた旧海軍の零式艦上戦闘機三二型が寄贈され、『筑前町立大刀洗平和記念館』では、いずれも世界唯一の実存機である九七式戦闘機と零戦三二型を見ることができます。
 
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22年にわたる『太刀洗平和記念館』としての役目を終えた太刀洗駅旧駅舎は、2009年10月、新たに”未来への始発駅・『太刀洗レトロステーション』”として生まれ変わりました。館内には、昭和史を語る貴重な品々が展示され、また太刀洗駅の改札口、線路地下道やそれへの下り口などが戦時中のまま保存されていて、古きよき『昭和』時代の日常と非日常を同時に体感することができます。線路地下道への下り口に、次のような説明板が残されています。
 
『別れの駅』太刀洗
 
旧国鉄甘木線の太刀洗駅は、戦時中『旧陸軍・大刀洗航空隊』の関係者が、毎日二万人以上利用されていました。その中でも、戦地に向かう兵士らと、面会に訪れた父、母や妻、子供らが別れを惜しんだ駅でもありました。とくに終戦間際には、多くの旧陸軍特攻隊員が、出撃基地である『大刀洗航空隊・知覧分駐隊』へこの駅から出征されています。
 
【備考】
(1)下記のージで『筑前町立大刀洗平和記念館』・『太刀洗レ
  トロステーション』の写真を見ることができます。
 → http://washimo-web.jp/Trip/Tachiarai/tachiarai.htm
 
(2)渕上さんは、”音と光のアンティーク資料館”『おんらく
  館』(音楽館)も運営されています。
 → http://www.onrakukan.com/
   

2010.08.15  
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