レポート  ・向田邦子さんと桜島   
− 向田邦子さんと桜島 −
東京に生まれた向田邦子さんは、保険会社につとめる父の転勤にともない、1939年(昭和14年)1月、一家で鹿児島に移り、9歳から11歳の多感な少女期を鹿児島で過ごしました。父の初めての地方支店長という栄転で大きな社宅に住み月給も上り気候が温暖で暮し易い鹿児島での暮しは、向田一家にとって楽しいことの多いものだったようです。わずか2年3ヶ月過ごしただけでしたが、向田さんは、終生、鹿児島を『故郷もどき』と呼んで愛し、作品にもしばしば登場させました。
  
しかし、鹿児島へは行ってみたい気分半分、行くのが惜しい気持ち半分で、一度も行かずにいました。鹿児島はあくまで思い出のままの鹿児島であって欲しかったのでしょう。ところが、1975年(昭和50年)に乳癌手術のために入院したとき、長く生きられないと判ったら『鹿児島に帰りたい』と思い始め、1979年2月、自分の気持ちに締めくくりをつけたいこともあって、鹿児島へ二泊三日の旅に出ます。
  
鹿児島空港に降り立った彼女は車でそのまま『昔住んでいた、城山のならびにある上之平の、高い石垣の上に建っていたあの家』に直行するのですが、車中での向田さんがいかにも向田さんらしくて面白いです。
  
当時、鹿児島空港からの車やバスは、鹿児島湾(錦江湾)に沿って南下する国道10号線を使って鹿児島市街に入っていました。鹿児島湾沿いの国道10号線からは桜島が最も綺麗に見えるのですが、あくまで昔住んでいたあのうちの、あの庭から眺める桜島にこだわった向田さんは、あまり見ないようにしたというのです。
  
ところが、行ってみると、向田さんの住んでいたうちは、失くなっていました。石垣は昔のままでしたが、家はあとかたもなく、代わりに敷地いっぱいに木造モルタル二階建てのアパートが建っており、戦災で焼けたのか老朽化したので取りこわしたのか、門も、石段も新しくなっていました。
  
〜 あれも無くなっている。これも無かった − 無いものねだりのわが鹿児島感傷旅行の中で、結局変らないものは、人。そして生きて火を吐く桜島であった。帰りたい気持ちと、期待を裏切られるのがこわくてためらう気持ちを、何十年もあたためつづけ、高い崖から飛び下りるような気持ちでたずねた鹿児島は、やはりなつかしいところであった。〜 『眠る盃』(鹿児島感傷旅行)より
  
鹿児島感傷旅行から2年半後の1981年8月、取材旅行中の台湾で不慮の飛行機事故により急逝、帰らぬ人となりました。約9300点にも及ぶ遺品の大半は鹿児島市のかごしま近代文学館によって所蔵されています。これは、故郷もどきへ”嫁入り”させようという母・せいさんの意向によって同館に寄贈されたものです。
  
そのかごしま近代文学館で、今年(2009年)11月28日が生誕80年になるのを記念して、向田邦子特別企画展(10/16〜11/30)が開催されました。所蔵遺品のうち約 450点が展示され、好奇心旺盛でお転婆で、おだてに弱くせっかちで、おいしい物好き、そして、人には見せない地道な努力家、美人で、才女で、おしゃれなのに、自分の悪癖や失敗談もあけすけに書いてはばからない向田邦子さんの、そんな雰囲気に触れることができたような気がしました。
 
【参考および引用図書】
・向田邦子著『父の詫び状』(文春文庫、2006年2月新装版)
・向田邦子著『眠る盃』(講談社文庫、1982年6月第1版発行)
 
【備考】
下記のページがあります。
■向田邦子さんのこと
 → http://washimo-web.jp/Report/Mag-MKuniko.htm
■旅行記 ・かごしま 向田邦子文学散歩(1) − 鹿児島
 → http://washimo-web.jp/Trip/Mkuniko/Mkuniko.htm
■旅行記 ・かごしま 向田邦子文学散歩(2) − 鹿児島
 → http://washimo-web.jp/Trip/Mkuniko02/Mkuniko02.htm
 

2009.12.16
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