レポート  ・山田方谷と最後の老中   
− 山田方谷と最後の老中 −
山田方谷(ほうこく)は、幕末期の備中松山藩(現岡山県高梁市)にあって、10万両あった藩の借財を8年間で10万両の備蓄に変え、実質石高が1万9千石しかなく貧乏板垣と陰口を叩かれていた備中松山藩を実力20万石の藩に変えるという奇跡的な改革を成し遂げた人です。
   
 ・レポート 山田方谷 − 事の外に立つ
 
矢吹邦彦著『炎の陽明学−山田方谷伝−』(明徳出版社)を読むと、藩政改革の物語のみならず、方谷と彼を取り巻く人々との交流の物語にも感銘を受けずにはおられません。このレポートは、江戸幕府最後の老中として将軍・徳川慶喜に仕えた第7代備中松山藩主板倉勝静(かつきょ)と山田方谷の師弟関係、主従関係の物語です。
 
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第6代備中松山藩主板倉勝職(かつつね)に子のなかった板倉家は、桑名藩松平家より、松平定信の孫(第8代将軍徳川吉宗から数えれば、玄孫にあたる)を養子に迎えます。やがて第7代備中松山藩主となる世子(世継)です。40歳の方谷は、孫ほども歳のひらきのある22歳の世子を藩校有終館の学頭として迎えました。
 
第6代藩主勝職は、どうしようもない酒乱の馬鹿殿様で、藩政には、いたって関心が薄く、郷土の盆踊りがはじまると我慢がならずまっさきに自ら踊りだすといった浮かれ殿様だったそうです。しかし、一農商の跡取りに過ぎなかった方谷に二人扶持の奨学金を出してくれ、藩の学問所への出入りを許し、士分に取り立て、しかも長期の遊学を許可してくれたのは、ほかでもない勝職その人でした。
 
いくら幼少の頃より非凡だったといっても、これらの恩恵がなかったとしたら、方谷も片田舎の一市井の人としてその生涯を終わったかも知れません。勝職に深い恩恵を感じていた方谷は、この世子を将来の名君に育てることが藩主勝職に対する恩返しだと考えます。
 
方谷の教育に容赦はありません。そして、姿もりりしき勝静は文武両道に励み方谷に応えます。それから5年後の嘉永2年(1849年)、第7代藩主の座についた板倉勝静は、方谷に藩の元締役兼吟味役を命じます。ペリーが黒船をしたがえて浦賀に来航する4年前のことでした。
 
元締役兼吟味役といえば、藩財政の一切を任されるポスト。前代未聞の破格の抜擢に、方谷はひたすら辞退しますが、勝静の必死の説得に折れます。いったん、その役を引き受けると、方谷はすぐさま藩政改革に着手し、奇跡的な改革を遂げたのです。
 
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方谷を抜擢して藩政改革を成功させたことが評価され、板倉勝静は幕府の寺社奉行に推挙されます。しかし、当時幕閣に着くには『お手入れ』といわれる賄賂が必要な慣わしでした。また、寺社奉行につけば、奉行所の運営諸経費は全て備中松山藩の負担になります。勝静は国元の方谷に手紙を書きます。
 
その返事として方谷が藩主へ書いた非常に丁寧な手紙の内容は、お手入れを使ってまでの寺社奉行就任はやめていただきたい、というものでした。諦めきれない勝静は、江戸に方谷を呼び寄せますが、方谷は妥協しません。
 
ところが、思いがけないことが起きます。お手入れを使うことなく、しかも34歳という若さで、勝静は幕府の寺社奉行に就任してしまったのです。それほど幕府は人材を必要としていたということでしょう。
 
藩主へ御祝の手紙を書きながら方谷の気持ちは複雑にゆれ動きます。幕府の余命いくばくもないことが見えすぎていた方谷は、幕府が破局を迎えたときの藩主と備中松山藩ののっぴきならない状況を思い描いていたのです。
 
寺社奉行に就任した勝静は、安政の大獄で井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して直弼の怒りを買い一時罷免させられますが、直弼死後復帰し、翌年には老中に昇格します。第15代将軍徳川慶喜から厚い信任を受け、大政奉還の実現にも尽力します。大政奉還の建白書の草案を作ったのは山田方谷だといわれています。
 
慶応3年(1867年)10月12日の夜半に、備中松山の方谷のもとに、勝静からの密書をたずさえた早馬が訪れます。将軍慶喜から明治天皇に手渡す上奏文『大政奉還』の文面を慶喜に代わって考えて欲しいという密書でした。薩摩、長州両藩に倒幕の密勅が下されたのと同じ14日、慶喜は『大政奉還上奏書』を朝廷に提出しました。
 
翌慶応4年(明治元年)が明けるやいなや、鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰(ぼしん)戦争が開始されます。鳥羽伏見の戦では、幕府軍1万5千人に対して、薩長の朝廷側はわずか5千人でしたが、予想に反して、幕府はみじめに惨敗しました。
 
敗れた徳川慶喜は大阪湾に停泊中の幕府の軍艦に老中板倉勝静や会津藩主松平容保等をしたがえて乗り込み、大阪城に引き上げてきた敗残兵を残し、海路江戸へさっさと遁走してしまいます。
 
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朝敵となった備中松山藩征討の朝命が備中岡山藩をはじめ中国地方の諸藩にくだります。勝静は江戸に逃げたまま音信が絶えていて、藩主不在の備中松山藩を征討軍が取り囲みます。山田方谷を迎えた城内は、決戦か降伏か意見が真二つに分かれるなかで、方谷は考えます。『この戦いに義はあるか、利はあるか、忠はあるか。』
 
一方、備中松山を包囲した征討軍の総督・備中岡山藩筆頭家老は、備中松山藩の正兵よりも、山田方谷自らが手がけた最新装備の農民兵の存在が不気味です。方谷が降伏を決めると、無血開城となりました。
 
慶応4年(1868年)4月11日、江戸城が明け渡されると、多数の不満武装兵が脱走し、海軍副総裁だった榎本武揚は軍艦を率い蝦夷(北海道)へ向かって脱出します。勝静父子もここから流転の人生が始まりました。同年10月、仙台藩入りした勝静は、武揚の艦隊に身を投じ、蝦夷に向かいます。
 
このことを知った山田方谷は、1万ドルという大金を積んで、板倉勝静と旧知の仲だった横浜在留プロシア商船長ウェーフに勝静連れ戻しを依頼します。ウェーフは、函館に向かって船を進め、陣中見舞いと称して勝静を船中に招待したのです。
 
船中で軟禁状態にされた勝静は、明治2年(1869年)東京に連れ戻され、既に方谷が第5代藩主の弟の子である板倉勝弼(かつすけ)を新藩主に迎えて城を明け渡したことを知ると、やむなく降伏します。勝静父子は、死一等を免れ、支藩である安中藩に、終身禁固の御預けの身となります。備中松山藩は、所領を5万石から2万石に減らされ、高梁藩と改名されました。
 
勝静は晩年は、上野東照宮の祠官(しかん)となり、また、方谷の弟子たちの協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の設立を行ったりして、静かな余生を送り、明治22年(1889年)、67歳で没しています。
 
勝静は、旧主である慶喜が赦免後に幕府のために命を捧げた家臣たちのことも考えずに悠々自適の生活を送っていると知ると、激怒してあのような主君に仕えた自分が誤っていたと語ったといわれます。また、生前に勝静とは身分を越えた友人であった勝海舟は、『あのような時代(幕末)でなければ、祖父の(松平)定信公以上の名君になれていたであろう。巡り会わせが不幸だったとしか言いようが無い』と語ったといわれます(フリー百科事典・ウィキペディアより)。
 
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一方、山田方谷は、主家復興の嘆願を岩倉具視に働きかけると、会計局(大蔵省)へ抜擢の沙汰が返事として返ってくる有り様でした。朝敵である敗者側の方谷を新政府に迎えたいというのです。大久保利通や木戸孝充は出仕の督促を数年にわたって続けますが、方谷は辞退辞し続けました。もし明治政府に参加していれば、方谷の名声は歴史の中で一条の輝かしい脚光をあびたことは間違いないであろうといわれています。
 
敗戦処理と藩の再興が終わると方谷は、備中松山藩を去り、藩外の、母の故郷だった小阪部というところに隠棲し、以後教育一筋の生活を送ります。そして、明治8年春、7年振りにひっそりと備中高梁の踏んだ方谷は、恩赦となった板倉勝静と再会します。かつての藩主であり、幕府老中だった勝静の庶民と変わらぬ平服姿に方谷は、人知れず涙します。
 
勝静が備中高梁を訪れたのは、どうしても方谷に会い、永年の感謝と詫(わ)びの一言を告げるためでした。勝静や方谷をむかえて、集まった多数の旧藩士たちが蓮華寺臥牛亭で催した宴会が終わると、勝静は城下から三里離れた方谷の旧屋敷の一軒家を初めて訪れ、三泊四日を過ごし語り明かしたそうです。今度は、十畝のささやかな茶園の経営者になるのだといって、老いたる勝静は帰って行きます。
 
【参考文献、サイト】
・矢吹邦彦著『炎の陽明学 −山田方谷伝− 』、明徳出版社、平成8年3月初版。
・板倉勝静 - Wikipedia
 

2007.08.08  
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