レポート  ・山田方谷 − 事の外に立つ   
山田方谷 − 事の外に立つ
旅には思わぬ出会いがあります。山田方谷(やまだほうこく、1805〜1877年)という人のことを知ったのも、岡山県高梁(たかはし)市への旅がきっかけでした。倉敷から国道 180号を北上すること約50分。内陸山岳地帯を南北に流れる高梁川の両側の谷間に形成された高梁市街は、備中松山藩の城下町でした。
 
藩政改革といえば、10歳のとき九州の小藩・日向高鍋藩から養子に出され第9代米沢藩主となった上杉鷹山(ようざん)がよく知られていますが、幕末期の備中松山藩にあって、短期間に鷹山の何倍もの改革を成し遂げた山田方谷という人があったことを知る人は、そう多くないかも知れません。
 
方谷(通称、安五郎)は、御家再興にすべてを賭けて農業と行燈(あんどん)の灯油の製造販売に勤しむ家に生まれます。幼少の頃より非凡な才能と明晰さを発揮し、神童と呼ばれた安五郎は、14歳のとき母を、15歳のときに父を亡くしますが、京都に遊学して朱子学を、江戸に出て陽明学を学びます。
 
32歳で遊学を終えて帰藩し、藩教育の最高責任者である藩校有終館の学頭に就任した方谷に、45歳のとき、さらなる転機が訪れます。藩元締役兼吟味役の藩命が出されたのです。
 
元締役兼吟味役は、藩財政一切を取り仕切る役。農商の身分から取り立てられた一介の儒臣が代々の世臣である門閥の上級武士を差し置いての、前代未聞の破格の抜擢でした。方谷は、ひたすら辞退しますが、27歳の藩主板倉勝静(かつきょ)の死にもの狂いの説得に折れます。
 
就任早々藩の財政状態をつぶさに調査した方谷は、恐るべき調査結果に唖然とします。総額10万両を越える巨額な借金だけでなく、三年間の平均実質石高が、表高5万石の5分に2に満たない、わずか1万9千石しかないという、年収の大粉飾の現実があったのです。
 
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『事の外に立つ』、これは方谷のことば。政治も経済も事の内に屈してはならない。政治の姿勢を正し、人心を引き締め、文武を図り、客観的に大局を見よということでしょう。山田方谷は、10万両あった藩の借財を8年間で10万両の備蓄に変え、貧乏板倉と陰口を叩かれた備中松山藩を実力20万石の藩にしました。
 
方谷の藩政改革の骨子を列挙すると次のようです。
 
(1)債権者に藩の帳簿を公開し、実収入が年間1万9千石しかない藩財政の実情を告白し、10万両の借金の一時棚上げと50年返済延期を取り付けた(ただし、改革の成功によって数年後には完済している)。
 
(2)大坂の蔵屋敷を廃止して、収納米を藩内の米蔵に保管。堂島米市場の動向に左右されることなく、最も有利な時期に藩で売るようにした。また、収納米は災害や飢饉の際には領民への援助米にあてるようにした。
 
(3)家中に節約令を出し、上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じた。また、賄賂や接待を受けることを禁じ、発覚した場合には没収させた。方谷自身も自分の家の会計出納を第三者に委任して公開し、賄賂を受けていないことを明らかにし続けた。
 
(4)乱発によって信用を失った藩札を回収して、公衆の面前で焼き捨て、代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換(だかん)を義務付けた。藩札の信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
 
(5)領内で取れる砂鉄から備中鍬や稲こぎ機、鉄器などを生産させ、また煙草や茶、和紙、柚餅子(ゆべし)などの特産品を開発して撫育局(ぶいくきょく)という役所を設置して一種の専売制を導入した。しかし、一方で専売制が逆に民間の事業欲や生産性向上意欲を削(そ)ぐことがないよう留意した。
 
(6)出来上がった製品や特産品は、利にさとい大坂商人に下さず、藩所有の艦船で直接江戸へ運び、江戸屋敷内に役所と倉を設け、荷の販売を藩の直営とした。これによって中間利益を排して収益性の改善を図った。
 
(7)庶民教育のための学校を設立し、良く出来る生徒には賞を与え、さらに士分に登用して役人に抜擢したので、向学の雰囲気がおのずから高まっていった。
 
(8)領内の山野に杉や竹、漆(うるし)や茶などを植えさせ、民家には飢饉に備えて柿を実らせるように奨励した。さらに道路や河川・港湾などの公共工事を起こして領民に従事させ現金収入を与えるとともに、交通路の安全や農業用水の灌漑の充実を図った。
 
(9)目安箱を設置して、領民の提案を広くきいた。犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を促進した。
 
(10)藩士に大砲と西洋銃陣を習わせ、西洋式軍隊を整えた。武士が横ならびの軍隊編成を嫌うとみるや、圧倒的多数の農民を兵力に引き入れて農兵制を導入し、富国強兵を図った。この軍制は、高杉晋作の奇兵隊(長州藩)や河井継之助の軍制(長岡藩)の模範にされた。
 
(11)下級武士を未開の要害地に移住させ、一種の屯田制を導入して農地開発と同時に国境防衛の任に当たらせた。
 
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やがて山田方谷は、財政を握る元締役を兼任のまま備中松山藩の参政、すなわち藩の総理大臣の地位につき、世臣の家老や上席武士たちをことごとく配下としますが、藩主に次ぐ最高の地位になりながら、山田方谷の身分は家老に準じる身分に据え置かれたままだったそうです。
 
奇跡の藩政改革によって、見違えるほど豊かになった備中松山藩の蔵には10万両の備蓄が眠っているというのに、当の方谷の家計は火の車で、妻の髪飾りを金にかえて急場しのぎしなければならないほどだったそうです。
 
高梁を訪れると、橋や公園や森林などに方谷の名前が付けられているのに気づきます。備中高梁駅から伯備線を北上した三つ目の駅が方谷ですが、ここは山田方谷の開墾屋敷があったところで、それにちなんで方谷駅と命名されました。鉄道当局は人名を駅名に採用するのを禁止していましたが、地元の人たちの熱心な命名活動によって実現したのだそです。
 
山田方谷は、ケインズより早くケインズ経済を実施した人といわれ、昨今見直し気運が高まっているようです。
 
【参考文献、サイト】
・矢吹邦彦著『炎の陽明学 −山田方谷伝− 』、明徳出版社、平成8年3月初版。
・山田方谷 - Wikipedia
 

2007.08.01  
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