レポート  ・人吉球磨のかくれ念仏   
− 人吉球磨のかくれ念仏 −
人吉・仲よし・こころ良し。人々は、人吉・球磨地方の気質をこう称して呼びます。四方を九州山地の山々に囲まれ、建久9年(1198年)以来、明治維新までの約 700年の長きにわたって相良(さがら)藩一藩による統治が続いたこの地域には、独特の仏教文化圏が形成され、それは今に受継がれています。例えば、人吉球磨地方に点在する相良三十三観音や鎌倉時代の建築様式を今に伝える青蓮寺の茅葺の阿弥陀堂などがそうです。
  
ですから、相良藩によって一向宗(真宗、浄土真宗)の信仰が禁止され、それも 300余年という長きにわたって続けられたという歴史があったことは意外な気がします。(但し、相良氏の菩提寺・願成寺にも、『南無阿弥陀仏』と刻まれたお墓があるように、すべての念仏が禁じられたわけではなく、ご法度とされたのは浄土真宗と日蓮宗に限られました)。
  
一向宗信仰の禁止は、薩摩藩(鹿児島と宮崎の一部)でも行われていて、人吉球磨のかくれ念仏の案内板には、『相良藩は、肥後の諸地との交渉がなく地理的に南接する薩摩藩と深く関係がありました。ですから、宗教政策も薩摩藩に従って、一向宗禁制を布(し)くに至った』とあります。
  
しかし、島津氏による公式の一向宗禁止令は慶長6年(1601年)に出されているのに対して(それ以前の1550年頃から禁止の基本方針はあったようです)、相良藩の禁制は、天文24年(1555年)に始まっていますから、禁制に乗り出したのは、むしろ相良藩の方が早かったということになります。
  
第17代相良晴廣が天文24年2月5日に相良藩式目21ヶ条を作成し、その中に特に一向宗禁制に係わる条文を出しました。それによれば、次の三つの条文を用いてその理由が述べられています。
  
一、他の国より到来する葉振り(神官)、山伏、物知り(薬売り、琵琶法師、連歌師等)に宿を貸したり、祈念等の頼み事をもってはいけない、一向宗の伝導僧のすることでもあるから問い調べるべきである。
  
一、一向宗は、いよいよ禁止すべきである、すでに加賀(石川県)では、一向一揆が起き白山は燃え尽きてしまった、語る以上に現実は明白である。
  
一、男女の区別なく、素人で祈るもの、薬をあつかう者(知識者)は皆一向宗の者と心得るべきである。
  
薩摩藩においては、豊臣秀吉が薩摩を攻めるにあたって一向宗信者が秀吉側へ情報を伝えていたといわれます(秀吉の九州征伐は1586〜87年)。上述の第一の条文は、他国に藩の国力や情報が漏れるのを防ぐための隠密防止の政策だったと思われます。
  
第二の条文は、藩内に潜んでいる信者が団結して一向一揆を起こさないように防止する政策であり、最後の条文は、男女を問わず一般庶民(素人)の自由と平等を唱える『平等思想』と『在家仏教』という真宗(一向宗)の根本思想を抑圧する条文だと思われます。
  
相良藩は、宗門奉行を頂点に村々に監視の目を張り巡らし、毎年、春と秋には宗門改め(民衆の信仰する宗教を調査する制度)を行い、さらに檀那寺(だんなでら、檀家となっている寺)には寺請証文を、村には宗門人別帳を、五人組には証文を出させるなどして、一向宗を取り締まりました。
  
そうした取り締りにもかかわらず、相良藩内において一向宗信者があとを絶たなかったのみならず、多数の信者が潜伏していたことは、楽行寺(らくぎょうじ、人吉市にある真宗佛光寺派の寺)などに所蔵されている一向宗禁制当時の遺品や古文書等からも明白です。
  
これに対して門徒たちは、仏飯講などの秘密の講(信仰集団)をつくり、それを親から子へと受け継いでいきました。講は、領外の浄土真宗のお寺を通じて本山の本願寺への上納も行いました。こうした金銀流出という事態も藩が一向宗を禁制とした理由の一つといわれます。
  
講では、拝礼の対象となる『座仏』・『御講仏』(持仏や阿弥陀仏本尊、御開山聖人、中興上人、名号掛け軸等)を隠し部屋や土蔵、あるいは山中の洞窟等に安置して、定期的に『法座』を開いていました。法座を開くといっても、僧侶が通ってくることはできませんでした。
  
講の重要な世話役に毛坊主と呼ばれる人がいました。法座でお経をあげ、必要なときに僧侶の代わりをしたり、領外(芦北や八代、阿蘇郡)の浄土真宗のお寺との連絡役などを務めました。正式の僧侶でなく有髪妻帯の俗人なので毛坊主と呼ばれたわけです。毛坊主の存在は大きく、長い禁制を耐え抜いた原動力でした。
  
西本願寺鹿児島別院(鹿児島市内)の境内に『涙石』と呼ばれる石があります。薩摩藩では、一向宗信者の疑いのある者を捕らえて、その石を抱かせて自白を迫ったと伝えられています。信者たちの苦しみの涙がそそがれた石という意味で涙石と呼ばれています。
  
『男子は割木(わりき)の上に座しめ、膝上に五・六拾斤の石を載せ、左右より短棒にて打擲(ちょうちゃく)致し、皮肉破れ、血流、脚骨砕・・・』(薩摩国諸記)とあるように、薩摩藩における一向宗の取り締まりは、藩の中に一向宗信者が一人としていないよう、信者の根絶を目指したものでした。
  
薩摩藩が禁制に関して非常に厳しかったのに対して、相良藩の処置はまだ寛大だったと思われています。というのは、相良藩では、役人・惣目付を始めとして村人ほとんど全員が一向宗信者であり、一向宗禁制の取調べ中に皆でかばい合って、裁判の証文(村人の証文を集めたもの)も取れないぐらいに一向宗が浸透していたからでした。
  
厳しく取り締まれば、領民が村を捨てて他国へ逃げる、いわゆる逃散や殉教を招き、村本体が崩壊し消滅しかねませんでした。相良藩の取り締まりは、信者の根絶よりもむしろ信者が強く団結した組織(講)の解体が最優先されていたと思われます。
  
今年(2011年)4月の中旬に人吉球磨のかくれ念仏の史跡を回り、楽行寺を訪ねました。四代目代表の富士谷澄照さんに1時間半近くもお話しをお伺いし、真宗禁制の貴重な遺品の数々を拝見させて頂きました。本レポートは、主に、そのとき頂いた資料『かくれ念佛の里をたずねて−相良藩における真宗(一向宗)禁制の遺品の数々とその歴史−』を参考にさせて頂いて書きました。
  
その資料に次のようにあります。『現在、人吉・球磨に残っている真宗禁制の史跡や命懸けで守りとおしてきた遺品の数々、古文書等の資料を拝見することにより、信教の自由の権利が保障されている時代(現代)の私たちに対して、問いかける多くの声無き声のメッセージを感じ取って頂ければ幸いです』と。
  
【参考にした資料とサイト】
(1) 楽行寺『かくれ念佛の里をたずねて−相良藩における真宗(一向宗)
   禁制の遺品の数々とその歴史−』
(2) 相良藩と一向宗禁制:肥後国 くまもとの歴史
    → http://yumeko2.otemo-yan.net/e364439.html
(3) かくれ念仏の里 ふるさと寺子屋 お役立ち便利帳 熊本県観光サイト
  → http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=085&pre_page=5
(4) レポート ・隠れ念仏(薩摩藩)
     → http://washimo-web.jp/Report/Mag-Kakure.htm
(5) 旅行記 ・隠れ念仏を訪ねて − 鹿児島県
   → http://washimo-web.jp/Trip/Nenbutsu/nenbutsu.htm
(6) 隠れ念仏 - Wikipedia
   

2011.06.29  
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