レポート  ・隠れ念仏   
− 隠れ念仏 −
かつてわが国でキリスト教が禁止されていた時代に、人々は厳しい弾圧を受けながらも、「隠れキリシタン」となって信仰を守り抜いたことは多くの人に知られています。
 
しかし、同時代に九州南部の薩摩藩(鹿児島と宮崎の一部)と相良藩(熊本県の人吉地方)では、300年余りのあいだ一向宗(浄土真宗)の信仰が禁止されていて、人々は「隠れ念仏」と呼ばれる真宗門徒になって、命がけで信仰を守り抜いたということはあまり知られていないのではないでしょうか。
 
島津家による公式の禁止令は慶長6年(1601年)に出されていますが、条文化される前の1550年頃から、禁止の基本方針はあったようです。明治9年(1876)に「信教自由の令」が出されるまで、一向宗の信仰は禁止され、それを犯した者は厳しく罰せられました。
 
鹿児島市内にある西本願寺鹿児島別院の庭先に「涙石」という文字の彫られた石が置かれています。役人たちが、信者の疑いのある者を捕らえて、抱かせて自白を迫ったと伝えられている石です。信者たちの苦しみの涙がそそがれた石という意味で涙石と呼ばれています。
 
その石の横にある案内板に、こう書かれています。「男子は割木(わりき)の上に座しめ、膝上に五・六拾斤の石を載せ、左右より短棒にて打擲(ちょうちゃく)致し、皮肉破れ、血流、脚骨砕・・・」(薩摩国諸記)と。
 
封建体制下の幕藩権力から見れば、「阿弥陀如来の前では、生きとし生けるものの命は全て尊く、全ては平等である」という親鸞の教えは相容(あいい)れないものであり、また加賀の一向一揆や、信長を手こずらせた真宗門徒の石山本願寺合戦の事実は、脅威だったでしょう。
 
しかし、江戸時代に 270余あった藩の中で、なぜ薩摩藩と相良藩だけが一向宗の信仰を禁止したのでしょうか。これまでに、いくつかの説が唱えられてきました。
 
例えば、薩摩藩では、豊臣秀吉が島津氏を討伐した際に、本願寺の門徒が秀吉に便宜を図ったからだとか、熱心な真宗門徒だった島津氏重臣の伊集院幸侃(こうかん)が謀反の疑いで手討ちされた事件がきっかけだとか、島津家の世継争いが絡(か)んでいた、などが挙げられています。
 
本願寺の財政は、もっぱら全国の真宗門徒の浄財によっていました。薩摩の門徒からも本願寺へ大量の金品がお布施として送られていましたから、その分、藩の財政を圧迫することになります。一向宗禁止令は、そのためだとも言われています。
 
300有余年の間に迫害を受けて亡くなった信者は、14万人にのぼるといわれています。逆境のなかで、信者らは、藩の役人に見つからないよう、雨や嵐など天候の悪い深夜を選び、人里離れた山中の「ガマ」と呼ばれる洞穴(ほらあな)に仏具を隠し、法座を開いて法悦(ほうえつ)の一夜を過ごしました。
 
明治の初め頃までに、南九州の各地にあった念仏洞は、その後崩壊や開発によってほとんど姿を消しましたが、いくつかの念仏洞がほぼ原形を留めており、見ることができます。鹿児島市郡山(こおりやま)町にある『花尾隠れ念仏洞』と、同市吉田町にある『都迫(とんざこ)の念仏かくれ窟』を訪問しました。旅行記としてホームページにアップロードしましたので、ご覧下さい。
 
人々は、強烈な弾圧を受けるなかで、本願寺からは寄付を募られ、志納金を奨励される一方、藩からは厳しい年貢の取り立てを受けました。弾圧と二重収奪の歴史のなかで、貧しさや飢えに耐えながら、隠れて300年の信仰を守ったのでした。
 
作家の五木寛之さんは、『花尾隠れ念仏洞』など、南九州の隠れ念仏の史跡を訪ね歩き、『日本人のこころ 2』(講談社・2001年10月発行)を著されています。その本のなかで、次のように述べています。
 
〜明治維新のころ、薩摩から若いヒーローたちがでて大活躍した。しかし、そういう華々しい歴史のヒーローたちの背景に、「血吹き涙の三百年」のなかで生き抜いてきた名も無き人たちが存在する。私は、そうしたものの深淵(しんえん)に、日本人のこころの原点を探って行きたいと思う(部分的に引用)〜と。
 
【用語】
・法座(ほうざ)=説法の行われる集会。
・法悦(ほうえつ)=仏法を聞いたり信仰したりすることにより心に喜びを感ずること。
 
【備考】
下記のページが参考になります。
■旅行記  ・隠れ念仏洞を訪ねて− 鹿児島市
→ http://washimo-web.jp/Trip/Nenbutsu/nenbutsu.htm

 2005.01.26
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