レポート | ・台湾 〜 二・二八事件 |
− 台湾 〜 二・二八事件 −
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中華民国の初代総統・蒋介石を顕彰する『中正紀念堂』は、広大な敷地に本堂のほかに、国家戯劇院や国家音楽庁、公園広場、休息所や回廊、庭園、池などが併設されていて、故宮博物院などと並ぶ台北市の名所の一つとなっています。 中正紀念堂のすぐ西にあるルネサンス様式の赤レンガ造りの建物は、日本統治時代に『台湾総督府』として建築されたもので、現在でも中華民国の『総統府』として使用されています。 今回(2010年6月)のツアーでは、総統府は車窓観光だったので、特別にお願いして一人下車させてもらい写真を撮影しました。そのとき、公園ほどの広さの広場にある記念碑に、『白色恐怖政治受難者紀念碑』という題字が書いてあるのに気づいてびっくりしたのでした。 国民党支配時の戒厳令下で犠牲になった本省人(台湾人)の人々を追悼する記念碑でした。(注)本省人に対して、日本による統治終了後、主に中国から台湾に移住してきた人(大部分は漢民族)とその子孫のことを外省人といいます。 『旧台湾総督府』、『中正紀念堂』、そして『白色恐怖政治受難者紀念碑』、それらは、台湾の歴史の複雑さを物語っているように感じました。 1945年に日本が敗戦すると、台湾には、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人が進駐してきて行政を引き継ぎました。 当初、少なからぬ本省人が台湾の『祖国復帰』を喜び、国民党政府の官僚や軍人らを歓迎しますが、やがて彼らの腐敗の凄まじさに驚き、失望します。 強姦・強盗・殺人を犯す者も多く、犯人が罰せられぬことがしばしばありました。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化しました。 比較的不正の少なかった日本の統治を体験した本省人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたいものでした。人々の不満は、いやが上にも高まっていきました。 そんななか、1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きました。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われました。 しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなりました。本省人は多くの地域で一時実権を掌握しましたが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧しました。この事件によって、約28,000人もの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われています。 この事件の際に発令された戒厳令は、40年後の1987年まで継続され、『白色テロ』と呼ばれる恐怖政治によって、多くの本省人が投獄、処刑されてきました。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていました。今日の台湾に近い形の『民主化』が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことでした。 1988年に李登輝が本省人として初の総統に就任して以降、本格的な民主化時代がはじまると、事件について語ることが『解禁』されます。1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は、二・二八事件を直接的に描いた初めての映画で、この映画がヴェネチア国際映画祭で金賞を受賞すると、二・二八事件が世界的に知られることとなりました。 事件当時の証言や告発をする動きもみられるようになり、政府に対する反逆として定義されていた二・二八事件も、現在は自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動として公式に再評価されるに至っています。台北市には記念公園・資料館が建てられ、被害者を偲んでいます。『白色恐怖政治受難者紀念碑』には、起造人/内政省営建署、竣工日期/2008年4月7日と記されています。〜 以上、ウィキペディアの二・二八事件のページより部分的に転載。 【備考】 下記の旅行記があります。 ■旅行記 ・台北の風景 〜 台湾の旅(1) → http://washimo-web.jp/Trip/Taiwan01/taiwan01.htm |
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2010.07.14 | ||||
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