♪わすれな草(リヒナー)
ぴあんの部屋
九州のひなまつり(3) − 薩摩の土人形
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島津家には、1729年、第22代島津継豊と5代将軍綱吉の養女竹姫の婚礼のときに、竹姫が持参したと伝えられるおよそ98種550点にものぼる雛道具が所蔵されていて、それらを展示した『人形とひな道具展』が、平成15年2月22日〜4月24日の間、仙巌園(通称磯庭園)の尚古集成館で開催されています。由緒あるとても立派で豪華な人形とひな道具で見ごたえがありますが、残念ながら写真撮影ができません。一方、仙巌園内の立札茶席・竹徑亭では、同じ期間中「薩摩の人形展」が開催されています。こちらは、明治時代から大正時代にかけて庶民の間に流行った鹿児島伝統の土人形展です。この人形展は、戦前に作られた帖佐人形、垂水人形、東郷人形などの土人形を中心に、一般家庭に提供を呼び掛けて集められ、展示されているものです。 「親から子へと受け継がれる庶民文化の象徴だったが、最近若い世代の家庭では見かけなくなった。人形を通して親子のつながりを考えてほしい」とのことです。
                                                        (旅した日 2003年3月)


立札茶席・竹徑亭
仙巌園の奥まった所にある静かな佇まいの野店風茶屋。ぜんざい・甘酒・抹茶、夏は抹茶アイスなどを戴けます。



帖佐人形
今から約400年前、島津義弘が朝鮮に出兵した際に朝鮮から連れ帰った陶工たちが故郷を偲んで作ったのが、薩摩の土人形の始まりといわれています。原色の、大変鮮やかな色使いながら素朴で独特の暖かみを持っています。最も流行ったのは明治時代から大正時代で、義弘ゆかりの帖佐(姶良郡姶良町)だけでも20軒ほどの人形窯元があったそうです。鹿児島では、この帖佐人形が、ひなまつりやこどもの節句の贈り物として庶民のあいだで利用されました。また、厄除けの一面もあり、こどもが病気にかかった時などに、この人形を叩き割ってこどもの身代わりにすることもあったようです。帖佐の影響を受け、東郷、垂水(たるみず)、宮之城など県内のあちこちで人形づくりが行われましたが、時代の流れと共に廃れ、現在まで引き継がれているのは、垂水市のみとなっています。


薩摩の土人形
 
  東郷土人形
東郷人形も、明治時代から大正時代にかけて最も盛んでした。毎年、東郷の町で開かれる2月26日の市は、人形市といわれたほどで、節句や子どもの誕生祝いなどの贈答品として大変な人気だったようです。土人形は、泥を専用の型に流し込み窯で焼いたものに色をつけます。作品は、学問の神様・菅原道真公や庶民のささやかな安全や幸福、五穀豊穣、商売繁盛などを願う恵比寿さんや大黒さん、歌舞伎役者、おいらん、獅子舞など50種類くらいの人形が作られたということです。東郷町では、東郷土人形を復活させようと、昭和49年に有志が集まり、昭和50年に復元を果たしたそうです。町の教育委員会では、例年、小・中学校や町民に呼びかけて、夏休み中に東郷土人形講座を開き、後継者育成に努めているとのことです。
 

薩摩糸びな
 
薩摩糸びな
江戸時代から鹿児島に伝わる変わり雛で、「薩摩びな」とか「紙びな」とも呼ばれています。一本の割り竹が首と背骨の役割をし、その先端に顔と髪が麻糸で作られています。麻は強くて丈夫で、生まれた子どもが健康に育つようにと顔と髪に用いられているものです。襟(えり)や衣の部分は色紙や布を重ねて作られていて、着物は幅の広い紙にきらびやかな「垂れ絵」が描かれています。男女の別は衣の柄と描かれた「垂れ絵」で区別が付けられています.。大正の初期頃まで、女の子の初節句にはお祝い人形として親戚・知人から贈られたそうです。

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