旅行記  ・宮本武蔵の史跡(1) − 巌流島上陸    



 
あずき色の丁装の紙製ケースに入った、吉川英治著の「宮本武蔵」(講談社・全3巻)を読んだのは、もう30年前のことです。巌流島の決闘までの剣豪宮本武蔵が格好良く描かれていました。「お通」に憧れたものです。平成15年のNHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」が始まり、またNHKテレビの「この時歴史が動いた」などで、宮本武蔵が取り上げられていますが、格好良い武蔵と言うより、巌流島以後も含めた武蔵の実像に迫ろうというものです。17歳のとき関が原の合戦に参戦して以来、57歳で細川忠利の客分として肥後・熊本に招かれるまで、大名家への仕官口を探し続けた就職浪人の40年間でした。世は戦国の時代から平和な管理社会への変遷期であり、ちまたは職を求める浪人で溢(あふ)れていました。武蔵は、自己アッピールのために決闘に挑んだ(仕掛けた)という見方があります。決闘には勝ったが仕官の目的は達せられず、出世人生では未だ勝つに至りません。
 
少子高齢化、多様化が進むなかで、今まさに就職難の時代です。「どう生きるか」に関心が集まっているのではないでしょうか。そうした時代を背景に、宮本武蔵の実像に関心が集まっているようです。宮本武蔵は有名すぎるぐらい有名で、史跡についても、すでに多くの写真集やサイトがありますが、本ページでは史跡を訪ね、あるいはテレビや雑誌、インターネット等で見聞きしたことを自分なりに整理してみました。まずは、巌流島上陸です。                                                 (旅した日 2003年1月)




巌流島の『佐々木小次郎文学碑』から




   
    
◇◆◇ 巌流島

 正式名は、船島(下関市大字彦島字船島)です。島の面積は埋立て部分を含めると十万三千平方メートルの広さです。慶長17年(1612年) 4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、あまりに有名です。「ニ天記」によると、巳の刻過(午十時)武蔵が到着。待ちくたびれた小次郎との間で、決闘が始まりました。武蔵の木刀は、振り下ろされ、頭上を打ちました。小次郎もまた太刀を払いましたが、武蔵の木刀は、小次郎の脇腹に振り下ろされ、勝敗は決しました。勝った武蔵も相当慌てていたらしく、とどめをさすのも忘れ、船に飛び乗ったということです。負けた小次郎の流派にちなんで、巌流島と呼ばれるようになりました。(巌流島入口の案内板より)

「海峡ゆめタワー」からみた巌流島
(決闘が行われたころの島の大きさは現在の1/6程度で、残りは造船所が埋め立てた私有地ということです。)


   関門海峡マップ
 下関の観光の中心部である唐戸や壇ノ浦や関門橋辺りを散策している限りでは、巌流島がどこにあるか皆目見当がつきませんが、「海峡ゆめタワー」の30階展望室(高さ約150m)にのぼれば一目瞭然です。

◇◆◇ いよいよ上陸です・・・

        
 @彦島江の浦の船着場から乗船して出発するとすぐ、右手に造船所を見て進みます(写真左)。A巌流島が見えてきました。こんもりした森(小山)の部分が本来の巌流島です(写真中・右)。
        
 B乗ってきた定員十数名の渡し船です(写真左)。今年(平成15年)の1月から定期観光船で上陸できるようになりました。C「ようこそ巌流島へ」と書かれた歓迎ゲートも設置されました(写真中)。Dこんもりした森の周辺は、つい最近まで潅木(かんぼく)のやぶだったらしいです。今は、きれいに整地されています(写真右)。

◇◆◇ 決闘の場所

            
 武蔵・小次郎決闘の地は、下関から関門海峡、そして門司港を180°展望できる場所にあり、「木碑」と村上元三著の「佐々木小次郎」文学碑が建てられています(写真上)。
        
 松林もあってなかなか風光明媚です(写真左)。今も造成中のところが何箇所かあります(写真中)。門司方面を見渡す場所に、決闘をイメージした砂浜が造られました(写真右)。

◇◆◇ 佐々木小次郎
   
〈写真左〉佐々木小次郎の墓碑(今から93年前の明治時代に建立されたもの。)
〈写真下中〉墓碑のそばには、「平たい石と漬物石みたいな石」が2つ埋もれていました。
〈写真下右〉秘剣燕返しの
佐々木小次郎記念像。4月には、宮本武蔵の記念像も建つそうです
            
−渡し舟船頭さんの話し−
 佐々木小次郎の墓碑は、こんもりした森(小山)の裏手のすそ野に立っています。この辺りは、つい最近まで一面潅木(かんぼく)に覆われており、小次郎の子孫の関係者でさえ墓碑の正確な場所がわからなったらしいです。そこで、霊媒師に頼んで探してもらったそうです。現在の墓碑が建つまでは、平たい石の上に漬物石みたいな石が乗せてあっただけの墓だったらしいです。そのことと、現在の墓碑の場所を正確に予言したらしいです。小次郎は、今の墓碑のある場所に確かに土葬され、遺骨があるらしいとの船頭さんの話しでした。
船頭さんの話しによれば、上の中央の写真が、その「平たい石と漬物石みたいな石」だとのことですが、それにしては新し過ぎる石のようです。
−小次郎のもう一つの墓論−        
 2002年5月16日付の山口新聞は、「山口県阿武郡阿武町福賀の曹洞宗・太用寺そばの山腹で、佐々木小次郎とその妻の名を刻んだとみられる墓が見つかった」と報じています。同紙は、また「決闘の地・巌流島にある小次郎の石碑は墓ではなく、明治時代に地元有志が建立した祈念碑で、下関市内でも墓は見つかっていない」とも報じています。

                                         ↓下関・海峡ゆめタワー       ↓唐戸市場        ↓関門橋              ↓門司港レトロ      
−武蔵・小次郎決闘の地から見た関門海峡


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◇17歳のとき、関ヶ原の戦いに西軍として参戦した。活躍したが、西軍敗れて出世の夢破れる。
◆21歳のとき、落ち武者として京へのぼり、天下の兵法者と次々と決闘をし
、剣豪として名をあげる。
◇しかし、どの大名家からも仕官の声はかからない。職を求める武士がちまたにあふれていた時代であった。
◆世は、戦国から平和な時代への変遷期。
遅れて来た剣豪。
決闘には勝ったが、大名家仕官の目的は達せられない。人生(出世)には敗北。

◆武蔵は、いかつい男で、テレビや映画のようにかっこよい男ではなかったようである。そのため、結婚を早々に諦め、養子をもらった。小次郎は、女性にもてて、結婚もしている。
◇武蔵は、戦場ならともかく、平和な管理社会にあっては、異相だったらしい。仕官口を求めて大名家を訪れたときも、
「武蔵は異相なり、とても若い者の指導など任せられない」というような評価だったらしい(NHK「その時歴史が動いた」から)。ここにも、「時代に遅れた武蔵像」が伺われる。

◇なぜ小倉藩主は、武蔵と小次郎の決闘を許したのか。小倉藩主は、
佐々木一党の台頭を恐れていた。ヒーロー格である小次郎を打つため、決闘を許した。もし、武蔵が勝っても剣術指南役に召抱えるつもりはなかった。(船頭さんの話し。時代考証の裏付けはありません。)
◆小次郎のとどめは、武蔵の弟子が刺した。宮本家十三代目の話し。しかし、NHKはそれを信じない。(これも、船頭さんの話しで、時代考証の裏付けなし。)
◇巌流島の決闘を境に、
武蔵の生き方は180°転換している、なぜか。@60数回の決闘と参戦で、100名以上を殺している。その怨霊に対するの苦しさのため。A剣を極めきったため。そして、B剣豪としての名声だけでは、人生の勝負に勝てないという考えに至ったため。
◆当時の巌流島には、砂浜はなかった。藪が海岸に向ってスロープ状になっているところで決闘した。
◇なぜ、小倉城下ではなく、
巌流島で決闘したのか。当時の社会情勢があった。慶長10年、家康は、反逆者(すなわち、関ヶ原の合戦で西軍についた者)、殺人者を召抱えないようにとの達示を出している。すなわち、徳川家からとがめを受けないよう警戒したためである(NHK「その時歴史が動いた」から)。

◆小次郎は真剣での決闘を望んだが、武蔵はなぜ、櫂(かい)を削った木刀で勝負したのか。
小次郎の長刀(三尺余り)よりも10cmほど長い木刀を作って対抗しようとした(NHK「その時歴史が動いた」から)。小次郎の長刀は、岩国で所蔵されている。武蔵は櫂(かい)を削った木刀を船頭にくれた。小倉藩主が船頭から取り戻して差し出すように命じたが、それを断って新しく同じものを作った。その木刀が、熊本(島田美術館)に現存する。

出世に夢破れた武蔵、決闘に負けた小次郎。


〈備考〉
 
宮本武蔵の実像に関する上記の記述は主として次のNHK番組放映を参考にしました。ご了承下さい。
  (1)2003年1月15日(水)午後9:15〜9:58 NHK総合 
    「その時歴史が動いた」  第121回 小次郎、敗れたり  〜決闘!巌流島・宮本武蔵の執念〜
  (2)2003年1月22日(水)午後9:15〜9:58 NHK総合
    「その時歴史が動いた」  第122回 兵法の道は人の道  〜宮本武蔵、「五輪書」完成への苦闘〜