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旅行記 ・萩の町並み − 山口県萩市 2008.11 |
萩の町並み |
江戸屋横丁 |
藩政時代の町並みを残す全国屈指の町、萩。 武家屋敷から町人屋敷、そして藩の外港と、広範囲にわたって往時の 町並みを残すのはここ萩だけでしょう。 |
俥宿天十平 |
中国8か国112万石の城下町広島から、 耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ思いで萩に入った毛利輝元は、 慶長9年(1604年)、萩城の築城に着手しました。 |
菊屋住宅(国重要文化財) |
そして、城の周囲の一画には 上層家臣団の屋敷を、その東方には町人町を、南方には、 中下級家臣団の屋敷を配置させました。 |
伊勢屋横丁 |
東西にのびる表通りの 御成道(おなりみち)に面する一画には、 藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が屋敷を構え、それぞれの名が 今も横丁名として残っています。 |
伊勢屋横丁で |
特に菊屋横丁の菊屋住宅付近は 観光客で賑やかですが、少し喧騒を離れるとひっそりとした 佇まいにも触れられます。 |
堀内の土塀群 |
旧三の丸の堀内地区は、 藩の諸役所や毛利氏一門、永代家老、寄組といった重臣たちの 邸宅が建ち並んでいた地区で、 |
堀内の土塀群 |
藩政時代の町割りをよく留め、 『夏みかんと長屋門と土塀』の景観や、雄大で重厚な長屋門などの 建物が見られる、町並みの中心となっています。 |
堀内の鍵曲 |
『鍵曲』は、道を鍵の手にように曲げ、 左右を高い土塀で囲んで見通しを悪し、敵を迷わせ、追いつめ やすいように工夫して造られたものです。 |
口羽家住宅(国重要文化財) |
口羽家住宅は、萩城下に残る上級武士の 屋敷のなかでも古いもので、主屋と表門がセットで残る、全国的にも 比較的数の少ない貴重な遺構となっています。 |
口羽家住宅(国重要文化財) |
雄大で重厚な構えに加え、 白壁と腰下のなまこ壁が美しい風情を 醸し出しています。 |
萩高校付近で |
観光客で賑わう町並み、 レンタサイクルが行き交う街角。そして、当然のことですが、 地元で暮らす人々の生活のある街。 |
旧益田家物見矢倉 |
益田家の建物も重厚雄大な建物で、 屋敷が城下と結ぶ北総門に近い位置にあったため、 倉庫と見張り矢倉を兼ねた建物でした。 |
陶磁器店・萩宝堂 |
土の柔らかい肌合の温かみが特徴の萩焼。 土塀ともよく調和しています。 町並みを歩けば、あちらこちらで萩焼を売るお店が目につきます。 |
山なみの見える風景 |
萩は、北を日本海に面し、三方が山に 囲まれています。中心市街地から周辺の市域・市町へ向かう際には 峠を越える必要のある遠隔地。 |
萩城跡 |
徳川幕府は毛利氏を危険視し、 首都を瀬戸内海岸に作らせず、日本海岸のこの僻遠地に 封じ込める策を取ったのでした。 |
萩城跡の毛利輝元公像 |
しかし、それから260余年後 皮肉にも、その萩が徳川政権を倒す原動力となる人材を 多く輩出することになるのです。 |
萩城跡 |
萩城は、別名を指月城(しづきじょう)といい、明治初期までは 美しい天守を持つ城でしたが、残念なことに明治7年(1874年)の廃城令により 天守・櫓などの建物が破却されました。 |
指月小橋の船着場 |
平成16年(2004年)に運行を開始した 萩八景遊覧船は約40分のコース。萩の自然や城下町を水上から楽しめます。 萩城跡へ通じる指月小橋のたもとに船着場があります。 |
姥倉運河風景(松本川方向を見る) |
萩商港を回り込んですぐのところ、松本川の河口から 萩漁港に姥倉運河が通じています。水害の多かった松本川の流れを分水して 流すようにした人工の掘割です。 |
姥倉運河風景(新川地区を見る) |
ほとんど観光客の 立ち寄るところではないようですが、趣のある風景だったので 思わずカメラを向けました。 |
反射炉跡 |
反射炉跡は、笠山方面へ向う国道191号線沿いにあります。 安政3年(1856年)に建設されたもので、 近世のもので現存するのは、静岡県の韮山とここの2基だけだそうです。 |
反射炉跡 |
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