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よのぬしのはか 世之主の墓 |
世之主の墓 |
沖永良部島(おきのえらぶじま)のほぼ中央部の高台に、世之主の墓、世之主城跡、世之主神社という史跡があります。世之主とは、昔島を納めていた島主のことで、『世之主の墓』は石灰岩(サンゴ)の崖をくりぬいて造った琉球式のもので『世之主城跡』はグスク(琉球の城)と共通性があるといわれます。沖永良部島は奄美群島(鹿児島県大島郡)に属しますが、鹿児島県本土からは 552km、沖縄本島からは約60kmの位置にあり、今から 600年前は琉球(今の沖縄県)の領土でした。 |
世之主の墓 |
西暦1400年頃、琉球国には、中山、南山、北山の三王が割拠し、沖永良部島は当時、北山王の領分に帰していました。初めて沖永良部島の世之主(島主)となった人は、北山王の二男・真松千代(ままちぢよ)という人でした。『世之主』とは、元々は琉球で地域を納めていた豪族に対する呼び名で、のちには、琉球国王の名称になりましたが、当時の人たちは村々や島々を納め、地域の発展に努め住民の生活を守っている豪族に対して尊敬の念を込めてそうと呼んだのでした。 |
世之主城跡 |
世之主(島主)となった真松千代は、民衆に慕われる立派なまつりごとを行い、四天王と呼ばれる4人の優秀な家来をもっていました。そして、真照間慕之前という、中山王の姫を奥方にもらい、嫡子1人をもうけていました。やがて、琉球の北山、中山、南山の戦いが激しくなり、中山王は南山を陥れ、北山も攻め滅ぼしました。しかし、中山王は、世之主の奥方が中山王の姫であるため、沖永良部島へ和睦の船を差し向けました.。 |
世之主城跡 |
ところが、浜で見張りをしていた世之主の家来が、攻撃にやってきた船だと誤って合図を送ってしまいます。世之主自身も、自分は北山王の二男であるから中山王が軍船で攻撃に来ても仕方がないと考え違いをし、小さい島をもって大国には到底勝てないと判断し、妻子ともども自害してしまいました。この悲劇の主人公『世之主』の葬られた墓と、かつての居城、そして世之主を祀った神社が上述の3つの史跡です。 |
世之主神社 |
『世之主の墓』には、世之主と嫡子、奥方の瓶が安置され、四隅に主君を守るかのように四天王の瓶が安置されています。『世之主城跡』は従来、木々に覆われていましたが、現在は伐採され、かつての城の形が見えるようになりました。その城跡を上空から見よると、琉球三山時代の北山王国の国王の居城だった『今帰仁城』(なきじんじょう)と非常によく似ているという指摘があり、保存・活用へ向けてこれから大きな事業になると期待されているそうです。 |
世之主城跡からみる太平洋側の風景 |
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