レポート | ・山岡鉄舟と飛騨高山 |
− 山岡鉄舟と飛騨高山 −
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(1)交差する史実 インターネットで、ある史実を調べていると、道路が交差するようにまた別の史実にたどり着きます。愛知県豊田市に住む長男が、こじんまりながら、マイホームを持ったので、2月の連休を利用して連れ合いと祝いに出かけることになりました。 せっかくだから、皆で一泊旅行しようということで、白川郷と飛騨高山に行くことになりました。すでに私は二回、連れ合いも一回行っているので、別の所にしたかったのですが、長男家族がまだ行ったことがないということで、すんなり白川郷と飛騨高山に決まりした。 ちょうどその頃、大分県中津城の旅行記をまとめている最中で、細川氏の転封の歴史を調べていると、肥後国熊本藩の改易に際し、初代藩主・加藤清正の嫡孫・加藤光正が飛騨高山へ配流され、その地で亡くなったという史実に出くわしました。 光正が幽閉されたという天照寺や光正の墓のある法華寺など、高山の寺院について調べていると、今度は、宗猷寺(そうゆうじ)という山岡鉄舟ゆかりのお寺があることを知り、鉄舟は飛騨郡代となった父に従い幼少時を飛騨高山で過ごしていることを知ったのです。途端に、飛騨高山行きが待ち遠しくなりました。 (2)南洲翁遺訓 〜 仕末に困るもの 『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)という一冊の本があります。戊辰戦争で新政府軍に執拗に抵抗した庄内藩(今でいう山形県鶴岡市、酒田市)でしたが、藩主や藩士らは、戦後処理で南洲翁(西郷隆盛)が下した極めて寛大な温情ある処置に感じ入り、明治になると、西郷を訪ねて教えを請うようになります。 明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布の特赦により、西郷の西南戦争での賊名が除かれると、旧庄内藩の人たちは、西郷から学んだ様々な教えを一冊の本に編集して出版し、それを背負って全国に配り歩き、その伝導者となりました。その本が『南洲翁遺訓』で、第三〇条につぎのようにあります。 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に 困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にし て、国家の大業は、成し得られぬなり。(以下略) (3)山岡鉄舟 南洲翁をして『始末に困るものなり』と言わしめた人が、山岡鉄舟(1836〜1888年)でした。名は高歩(たかゆき)、通称は鉄太郎。幕末の幕臣、明治時代の政治家。禅に通じ、剣を極め、書を能くした。 弘化2年(1845年)、飛騨郡代として着任した父小野朝右衛門、母磯について高山陣屋へ入った。書は高山の書家岩佐一亭に教えられ、15歳で弘法大師流入木道の伝統を継承した。剣は江戸から招請した北辰一刀流の井上清虎に学び、のち一刀流正伝を継ぎ、無刀流の一派を開いた。 禅は13歳ごろに始め、国・漢学・絵画等も高山在住時代の約8年間に学ぶなど、人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたものと考えられる。陣屋の松をみて、 降る雪と力くらべや松の枝 と詠んだ。父母の死後江戸へ帰り、のち山岡家の養子となった。勝海舟や義兄の高橋泥舟等と共に幕臣として活躍、慶応4年(1868年)3月、西郷隆盛と会見して江戸を戦火から救い、徳川家の安泰を導いた。 維新後は明治天皇の侍従をつとめ宮内小輔を拝名。 52歳の5月、華族に列せられ、勲功により子爵を授けられた。翌明治21年(1888年)7月19日、病を得て結跏趺座(けっかふざ)のまま53歳の生涯を閉じ、東京谷中の全生庵に葬られた。父母の墓は高山市東山宗猷寺にある。昭和62年12月 山岡鉄舟翁顕彰会。(以上、岐阜県高山市の高山陣屋跡前の広場にある『若き日の山岡鉄舟』像の碑文より転載。) (4)江戸無血開城 〜 西郷隆盛との談判 山岡鉄舟は、慶応4年(1868年)3月、江戸を戦火から救うべく、徳川慶喜の命を受けて薩摩藩士・益満休之助を伴い、決死の覚悟で3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)にたどり着き、単身で西郷と談判し、江戸無血開城の準備交渉を成功させました。 このとき、官軍が警備する中を『朝敵・徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る』と大音声で堂々と歩いて行っといいます。 西郷に会った鉄舟は、勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼みます。この際、西郷から5つの条件を提示されます。それは、 一、江戸城を明け渡す。 一、城中の兵を向島に移す。 一、兵器をすべて差し出す。 一、軍艦をすべて引き渡す。 一、将軍慶喜は備前藩にあずける。 というものでした。このうち最後の条件を鉄舟は拒みます。西郷は、これは朝命であると凄みますが、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論しました。西郷はこの論理をもっともだとして認め、これによって江戸無血開城がおこなわれることになりました[1][2]。 (5)エピソード 鉄舟が11歳の時、父の小野朝右衛門は、宗猷寺の和尚と親しい仲でした。ある日、宗猷寺に遊びに行った鉄舟が鐘楼の大鐘をしげしげと眺めていると、和尚が 『鉄さん、鉄さん、この鐘がほしいですか。』 『欲しければあげますから、持って行きなさい。』 と声をかけました。すると、鉄舟は『ありがとうございます』と言って一礼すると、そのまま飛んで帰って、父に『宗猷寺の大鐘をもらいました』と報告します。 父が微笑しつつ、『では取って来なさい』というと、鉄舟は小躍りして喜び、早速出入りの若者たちを引き連れて宗猷寺へ引き返し、大鐘をおろそうとしたので、和尚はさっきは冗談で言ったのですと何度も謝りますが、鉄舟はまったく聞き入れる耳を持ちません。 困り果てた和尚は、とうとう父の朝右衛門を呼んで説得を頼み、やっとのことで事態が収拾したといいます[3]。 (6)ボロ鉄 鉄舟は16歳で母を、17歳で父を失いました。父は臨終の床に鉄舟を呼び、金 3,500両をもって5人の子供の将来を託しました。5人はいずれも同母の弟で、末弟はやっと2歳になったばかりでした。 5人の弟たちを連れて飛騨から江戸へ帰った鉄舟は、異母兄の小野古風の家に身を寄せ、毎日末弟を抱いて近隣に貰い乳に歩き、夜になれば重湯に蜜を加えたものを枕元に温め置いては添い寝をしながらこれを飲ませるなどして面倒をみました。 その後、5人の弟に父の遺した金を分け与え、それぞれ相応の旗本の家に養子にやり、自身は金百両を持参して山岡家に入りました。残った金はすべて兄の古風に贈ったそうです。 鉄舟が父母と死別し、異母兄の家へ身を寄せて以後は、その衣服などが常に破れがちであったので、同輩連中は皆、『襤褸(ぼろ)鉄』とあだなして呼んだそうです。鉄舟はこの呼ぶ名を甘受し、自らもまた『ボロ鉄』と称したそうです[3]。 西郷隆盛と会談するときも、刀がないほど困窮していて、親友に大小を借りて官軍の陣営に向かったといいます[1]。 下記の旅行記があります。 ■旅行記 ・飛騨高山〜山岡鉄舟を訪ねて − 岐阜県高山市 下記のページで山岡鉄舟の書が見れます。 ■山岡鉄舟の書 【参考にしたサイト及び図書】 [1] 山岡鉄舟 − Wikipedia [2] 江戸開城 − Wikipedia [3] 圓山牧田(金生庵三世)・平井正修(金生庵七世)編『最後のサムライ 山岡鐡舟』(教育評論社、2007年9月1日、初版第1刷発行) |
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2014.04.02 |
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