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旅行記 ・薬丸野太刀自顕流 演武 − 東京都渋谷 2009.5.17 |
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やくまるのだちじげんりゅう 薬丸野太刀自顕流 |
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長木刀 | ||||||||
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槍止め(小太刀) |
【薬丸野太刀自顕流の歴史】 |
■『薬丸野太刀自顕流』とは、薩摩藩士・薬丸兼陳(やくまるけんちん)が示現流(じげんりゅう)を修めた後、家伝の野太刀(のだち)の技を元に編み出した剣術のことです。野太刀自顕流、薬丸流、あるいは単に自顕流とも呼ばれます。読みが同じなため、しばしば示現流と混同されますが、示現流とは別のものです。なお、野太刀とは、長い刀のことであり、現在の木刀には、南九州で一番固い木であるといわれるイスノキ(柞の木)が使われています。■平安時代中期の安和2年( 969年)、薩摩国に下向し大隅(鹿児島県の大隅半島)の豪族肝付氏の祖となった伴兼行(ばんかねゆき)が伝えた伴氏家伝の野太刀の技が源流だといわれます。肝付氏の分家に薬丸家があり、薬丸家は肝付氏の代々家老を務めながら家伝の野太刀の技をも伝えたといわれます。天正8年(1580年)、肝付氏が島津氏に服属すると、薬丸家も島津氏の家臣となります。その時の当主だった薬丸兼成の孫が薬丸兼陳であり、兼陳は家伝の野太刀の技を学ぶとともに、屋敷が近所で祖父の縁があった東郷重位(示現流開祖)の門下となり示現流を修め、五高弟の一人に数えられるまでになりました。この後、薬丸家は代々東郷家の高弟となり、示現流を盛り立てて行きますが、薬丸家には元々家伝の野太刀の技があり、代々の薬丸家当主は示現流の影響を取り入れながらも徐々に独自の剣術を形作って行きました。そして、江戸後期の薬丸兼武に至り、ついに示現流より独立して、如水伝、ジゲン流(薬丸自顕流)を立ち上げ、薬丸自顕流初代師範となります。しかし、示現流との間で弟子の移動があってトラブルになり、また、島津家の覚えも良くなく、兼武は屋久島へ流刑となり、屋久島で没しました(『はなまるマーケット』の司会者として活動中の薬丸裕英さんは、ご両親が鹿児島出身で、薬丸氏の末裔ではないかといわれています)。■さて、兼武の子の薬丸兼義の代に、藩よりようやく剣術師範家として認められました。藩主・島津斉興は乗り気でなかったと伝えられているにもかかわらず、師範家として復活した陰には、当時軍制改革の責任者として就任したばかりの家老・調所広郷の建議があったといわれます。 |
本ページの文章は、薬丸野太刀自顕流の歴史を含めて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考、あるいは引用・転載して作成しました。 |
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