| レポート | ・郷中(ごじゅう)教育 | ![]() |
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| − 郷中(ごじゅう)教育 − |
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| 少子化が進み、子供たちの異年齢交流の減少や地域との結びつきの低下が叫ばれるなかで、異年齢集団活動(縦割り活動)による青少年育成の試みが全国各地で行われています。 鹿児島には、『郷中教育』という薩摩藩の伝統的な縦割り教育がありました(『ごじゅうきょういく』、または『ごうじゅうきょういく』とも呼ばれます)。郷中とは、町内の区画や集落単位の自治会組織のことで、今でいう町内会と考えればいいでしょう。当時、鹿児島の城下には数十戸を単位として、およそ30の郷中があったと言われます。 郷中は、青少年を「稚児(ちご)」と「二才(にせ)」に分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。 稚児は年齢によってさらに、6・7歳〜10歳の小稚児(こちご)と11歳〜14・15歳の長稚児(おせちご)に分けられ、稚児のリーダーとして稚児頭(ちごがしら)がいました。また、二才(15・16歳〜24・25歳)のリーダーとして二才頭(にせがしら)がいて、二才と稚児の面倒をみていました。 稚児と呼ばれる武士の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ走っていって本読みを習い、家に帰って朝食後その復習をしたのち今度は、馬場と呼ばれる広場や神社の境内などに集って、馬追いや降参言わせ、相撲、旗とりなどの山坂達者によって身体を鍛えます。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、槍、弓、馬術など、武芸の稽古です。 長稚児たちは、夕方から二才たちが集まっている家に行って、郷中の掟を復唱したり自分たちの生活を反省したりします。武士の子としてよくない行いがあれば注意を受け、場合によっては厳しい罰を受けることもありました。このように、武士の子どもたちは、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾(しつけ)・武芸を身につけ、勉学に勤(いそ)しみました。 年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるなということなどを、人として生きていくために最も必要なこととして教えました。この郷中教育は、文禄・慶長の役(1592〜98年)のとき、残された子どもたちの風紀が乱れないように始められたと言われます。 薩摩出身の軍人・政治家、樺山資紀(かばやますけのり)伯爵を祖父に持った随筆家の白洲正子さん(1910〜1998・明治43年〜平成10年)は、津本陽さんの著書『薩南示現流』(1983年、文藝春秋刊)に出てくる逸話を、著書『白洲正子自伝』(1999年、新潮社刊)で紹介しています。 幕末、指宿(いぶすき)藤次郎という示現流の使い手が京都祇園で見廻組に殺されました。その時同行していた前田某という若侍はいち早く遁走(とんそう)してしまったのです。指宿の葬儀の場に、橋口覚之進という気性のはげしい若侍がいて、「お前(おはん)が、一番線香じゃ。先(さきィ)拝め」と言って、参列者の中から前田を呼出します。 前田がおそるおそる進み出て線香し、指宿の死体の上でうなだれていると、橋口は腰刀を抜いて、一刀のもとに前田の首を斬(き)ったのだそうです。首はひとたまりもなく、棺(かん)の中に落ちました。「こいでよか。蓋(ふた)をせい」 白洲さんは、何とも野蕃(やばん)な話であるが、橋口にしても、前田にしても、そうしなければならない理由があった、(郷中教育を受けたものにとって、)この葬儀の場合は、葬儀というより一種の儀式で、参列者は元より、斬る方も斬られる側も、すべて暗黙の了解のもとにあり、「こいでよか」のひと事で済んだのであろうと述べています。 何より卑怯(ひきょう)・卑劣をいやしむ郷中教育の教えからして、前田の行為は最も恥ずべき行為であり、そして郷中教育の教えがそれほど徹底していたということでしょうか。この話に出てくる橋口覚之進なる若侍こそ、樺山家へ養子入する前の祖父(樺山資紀)の若き日の姿だったのだそうです。 一刀のもとに首を斬り落とすなどという上述の逸話のような前近代的な側面は別として、郷中教育の異年齢集団活動による青少年育成としての理念は、これからも語り継がれていくことでしょう。 |
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| 2005.06.01 | ||||
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