♪花の歌(ランゲ)
ぴあんの部屋
宇喜多秀家公潜居跡 − 鹿児島県垂水市
                      
10代半ばにして、備前岡山57万余石を知行する大大名に躍進し、26歳の若さで豊臣政権の最高機関である五大老に任じられた宇喜多秀家。その貴公子然とした美男子振りは、登城するだけで大阪城の奥が騒いだほどだったといわれます。しかし、関ヶ原の戦いの敗北を転機に、流人の身となり84歳までの生涯を八丈島で過ごすことになります。桜島を鹿児島市と反対の側から眺める大隅半島の垂水(たるみず)市には、関ヶ原敗北の後、秀家公が2年3ヵ月間潜居した屋敷跡があります。その跡地は今も土地の人たちによって守り続けられ、毎年追善の神事が欠かさず執り行われています。垂水市牛根(うしね)に宇喜多秀家公潜居跡地を訪ねました。                        (旅した日 2008年9、11月)
  
  
垂水市・牛根
錦江湾に迫る大隅半島の山並み。中央海岸線付近が垂水市牛根。

宇喜多秀家(岡山城蔵)

宇喜多秀家
若くして五大老へ
元亀3年(1572年)、備前(岡山県南東部)の豪族・宇喜多直家の次男として生まれ、父の病没により9歳で家督を相続。毛利征伐のために出陣してきた豊臣秀吉に気に入られ、養子扱いの厚遇を受け、天下取りの戦いに積極的に参戦。数々の戦功を挙げ、秀吉天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部など57万4千石を知行する大大名に躍進。17歳の天正17年(1589)に、前田利家の四女で秀吉の養女・豪姫を正室に迎えます。朝鮮征伐において大勝利をおさめ、その功により中納言に昇進し、さらに、26歳の若さで、徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に任じられます。
 
関ヶ原敗北
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の主力として1万7千の兵を率いて奮戦しますが壊滅し、伊吹山中に敗走。矢野五右衛門宅(現岐阜県揖斐川町白樫)に42日間潜匿後、隠密裏に大阪備前屋敷へ送られ、豪姫と再会。備前屋敷にとどまることも難しくなると、薩摩の島津氏を頼ることにし、大阪より小船で海路薩摩に落ちます。豪姫は実家の加賀(金沢)前田家へ。慶長6年(1601年)5月、秀家29歳のときでした。
 
薩摩へ
秀家主従は、同年6月薩摩半島南端の山川港(現指宿市)に到着。島津義弘は、伊勢貞成、相良長辰をして対応、厚遇し、鄭重に出迎えさせます。しかし、徳川家康に対する配慮から秀家主従を薩摩の本拠地、鹿児島の鶴丸城へ迎え入れることはなく、牛根の平野家に命じて、平野屋敷に置くことにしました。そのため、山川港には上陸させず、山川港より直接、牛根へ廻船させました。
 
平野屋敷(2年3ヶ月の潜居)
秀家主従を快く迎え入れたこの地の豪族『平野一族』は、平家の一族で壇の浦の合戦に破れ、安徳天皇入水のあと平家の落人として牛根の地に土着した子孫でした。山林だけでも70町歩を有し、平地は『平野原』と呼び名されていました。平野家には、本宅として山腹に上屋敷、錦江湾(鹿児島湾)に面して下屋敷の別宅(隠居所の形をとった、海路外敵の見張所を兼ねていた)がありました。下屋敷は、平野本家現在地になっています(左図)。
 
平野家では、上屋敷を秀家公のために明け渡し、下屋敷へ移りました。以来、上屋敷は上屋敷とは呼ばず、『宇喜多屋敷』(うっじゃしき)と呼びました。宇喜多屋敷の隣には、付人・家来宅地も造られ、少し下った場所には、6軒の郷士宅を配して警護所(監視所)としました。平野家一族あげての信頼は、かつての秀家公の人気を物語っています。秀家公は、改名して休復(きゅうふく)と名乗り、ここで2年3ヶ月の潜居生活を送りました。



宇喜多屋敷跡(平野上屋敷跡)
垂水市教育委員会の標柱が立つ宇喜多屋敷跡(写真上)。屋敷跡正面中央には、秀家公の堂祠が建てられています(写真左)
秀家公追善の祭祀
平野家では、秀家公が当地を去られて以来、毎年旧暦11月(霜月、神無月)の初めの申(さる)の日に、『霜月の祭』と称して、秀家公の追善の神事を欠かさず執り行ってきました。
 
その神事は、現在でも行なわれており、うるち米を水に浸しそれをすり鉢ですり潰したもの、それに赤飯と地酒を供え、容器は穢れたものはいけないので、木の葉を使うそうです。
貴公子
平野家口伝によれば、秀家は容姿端麗で、武士らしい凛々しい貴公子で、優しさを兼ね備えた偉大な人物だったそうです。牢人(警護人)や家臣から親しがられることはあっても、疎まれることはなかったそうです。
 
秀家の人気は武士の間に信仰のごとく広まり、旧臣達、遠路麾下(きか)に集まる来る者数十名、あるいは多いときは百数十名になったそうです。
付人・家来宅地跡には、2つの堂祠が
建てられています(写真右)
  
  
平野本家現在地(下屋敷跡)
以前は隠居所の形をとり見張所を兼ねていた下屋敷跡(写真上)

(写真上)
      うたたねの夢は牛根の里にさえ
               都忘れの菊は咲きけり
床の間に掛けられた秀家公の歌(写真右)
国道220号線、大隅交通ネットワークの小中野バス停前にある平野本家現在地(写真上・左)は、下屋敷があった場所で、現在、36代目平野利孝さん御一家が住んでいらっしゃいます。すぐ後ろは、錦江湾(鹿児島湾)の海岸線です。平野利孝さん宅の床の間には、秀家が牛根で詠んだ歌が書にしたためられ、掛けてありました(写真下)。
居世(こせ)神社
宇喜多屋敷より桜島寄りの約3kmのところにある居世神社(写真上・右下)。
豊臣秀吉の足下で育てられたこともあって、どんな環境下でも几帳面だった秀家は、日の出とともに起き、辿道を歩いて屋敷から約3kmにある『居世(こせ)神社』に、雨の日にも風の日にも欠かさず日参したそうです。居世神社は、安徳天皇の入水を悼んで文明年間(1469〜1486年)に建立された神社です。居世神社の記録によると、秀家は牛根を去るにあたり、眉尖刀(なぎなた)一、山薙刀一、盆十、盃一、木皿十を神社に奉納したそうです。
 
八丈島へ

秀家の人気の広まりは、島津家にとっては、徳川家康との和解が成立して、慶長8年(1603年)にようやく島津の旧領が安堵となったなかで煩わしい問題になりました。そこで、義弘の三男・家久(薩摩藩初代藩主、島津忠恒)は、秀家の助命を家康に願い出ます。家康は、豪姫の実家・前田家からの懇願もあったこともあり、島津家の体面を重んじで秀家の死一等を免じ、秀家は慶長8年8月、薩摩より京都伏見へ護送されます。直ちに駿河国(静岡県)久能山に移され2年間幽閉の後、慶長11年(1606年)の4月、伊豆諸島の八丈島へ流されました。八郎と改名、34歳のときでした。
 
遠流主従は次の13名でした。
宇喜多八郎(秀家)34歳、嫡男孫九郎(秀孝秀高)15歳、次男小平治(秀継)8歳、浮田次兵衛、甲田太郎右衛門、寺尾久七、村田道珍斎助六(加賀前田家の侍医)、半三郎、屋弥助、市若(中間)、才若(次兵衛下人)、阿い(小平治乳母)、登ら(阿い下女)。
居世神社付近から眺める桜島(写真下)。
豪姫とその後の秀家
加賀藩主前田家の祖・前田利家は、子のなかった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に四女の豪姫を養女に出します。秀吉の可愛がりようは相当なものだったようで、豪姫へ宛てた手紙が残されているそうです。正室の北政所にも寵愛され、豪姫は大切に育てられます。16歳のとき、秀吉が婿としてあてがったのが当時17歳の宇喜多秀家でした。まさしく『三国一の花婿』でした。仲むつまじい秀家・豪姫夫妻でしたが、関ヶ原の戦いが転機となりました。伊吹山中に敗走の後、薩摩へ逃れる途中、大坂の備前屋敷に寄り、数日間を共に過ごしたのが秀家と豪姫の今生の別れとなりました。秀家の八丈島流罪が決ると、豪姫は八丈島へ同行して苦労を共にすることを望みます。しかし、受け入れられず、秀家と二人の息子に再び会うことはかないませんでした。娘を連れて実家の加賀(金沢)前田家に身を寄せ、夫と息子の身を案じながら寂しい生活を30年近く送り、寛永11年(1634年)、61歳で亡くなりました。
 
豪姫の姿に感じ入った加賀三代藩主・前田利常(豪姫の弟)は、八丈島への仕送り許可願いを幕府に申しでます。交渉の結果、一年おきに白米70俵、金子35両、ほか衣類や雑貨、医薬品を八丈島の秀家に送ることが許可され、豪姫や秀家が亡くなった後も、明治になって宇喜多一族が赦免されるまで変わることなく仕送りが続けられたそうです。秀家は、明暦元年(1655年)に死去。実に50年近くを八丈島で過ごし、83歳の生涯を全うしました。関ヶ原を戦った大名の中では最も遅くに没した人でした。秀家の嫡男・秀高は八丈島代官奥山縫殿助の娘をめとり、父に先立って58歳で死去。次男・秀継は、明暦3年(1657年)、58歳で病死。秀高の子孫は2家を、秀継の子孫は5家を興し、江戸時代を乗り切り、ご子孫が現存しています。宇喜多秀家のご子孫と、伊吹山中に敗走した秀家を匿った矢野家、そして鹿児島県垂水市牛根の平野家では、現在も交流が続けられているそうです。
編集後記
宇喜多屋敷跡を初めて訪ねたのは、2008年9月末のことでした。門の前に下屋敷跡の標柱が立っている平野家本家現在地や周囲の風景を撮影させてもらい、まよいながら訪(おとな)いを入れると、36代目の平野利孝さんと奥様、娘さんがご在宅で、どうぞどうぞと応接間に通して下さいました。利孝さんは長い間教職に就かれていて、市の教育委員長もされていました。資料を見せて頂きながら興味あるお話を伺い、その上、奥様の手作りのお昼までご馳走になったのでした。これなんだ、秀家公へのもてなしって。今に引き継がれているもてなしの心を感じながら『すっかり秀家公の心持ちになりました』と礼を述べ、辞しました。その日は、それから大隅半島を錦江湾沿いに、さらに南大隅町まで南下して、野本一平さんの講演会『八島太郎』を聴きました。帰りの垂水は、錦江湾に沈む夕陽がきれいな光景(写真左)でした。
【参考】
(1)このページの文章は、平野利孝さんに頂いた資料等を参考にして書きました。
(2)宇喜多秀家の肖像画は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
  なお出典は、 → http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/rekidai/ukita/hideie.htm
 
 
 
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