♪花の歌(ランゲ)
ぴあんの部屋
嬉野温泉 〜 山頭火を歩く(6)− 佐賀県嬉野市
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佐賀県の南西部に位置する嬉野市は人口3万人弱の市です。嬉野川に沿って開けた嬉野温泉は、1500年の歴史を持ち、江戸時代長崎街道の嬉野宿として栄え、美肌に効果がある重曹泉で入浴した後につるつる感があることから「日本三大美肌の湯」の一つとされています。また、嬉野は、江戸時代慶安年間、吉村新兵衛によって栽培が始められたという茶おの産地としても知られています。『嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところです、私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます、云々』。種田山頭火は、そんな嬉野に庵を結ぼうと考えたときもあったようです。(旅した日 2008年05月)


嬉野
立岩展望台から見た嬉野の眺め。写真の上方が、嬉野川沿いに開けた嬉野温泉。その周囲では、豊かな自然を生かして名産の嬉野茶が栽培されています。茶畑は、ちょうど茶摘の時期に差し掛かっていました。

一月卅一日 曇、歩行四里、嬉野温泉、朝日屋(三〇・中)
(注) 昭和7年1月31日、一泊三〇銭、宿の印象は「中」 

一気にこゝまで来た、行乞三時間。
宿は新湯の傍、なか/\よい、よいだけ客が多いのでうるさい。飲んだ、
たらふく飲んだ、造酒屋が二軒ある、どちらの酒もよろしい、酒銘「一人娘」「虎の児」。
武雄温泉にはあまり好意が持てなかつた、それだけこの温泉には好意が持てる。
湧出量が豊富だ(武雄には自宅温泉はないのにこゝには方々にある)温度も高い、
安くて明るい、普通湯は二銭だが、宿から湯札を貰へば一銭だ。
茶の生産地だけあつて、茶畑が多い、茶の花のさみしいこと。
嬉野はうれしいの(神功皇后のお言葉)。休みすぎた、だらけた、一句も生れない。
ぐつすり寝た、アルコールと入浴とのおかげで、しかし、もつと、もつと、しつかりしなければ
ならない。                          
〜『行乞記』(種田山頭火)より、以下も同じ

    種田山頭火


嬉野温泉

             
古湯温泉

江戸時代、長崎街道の宿場として栄え始めた嬉野温泉は、温泉の泉源が豊玉姫神社から佐賀藩の支藩・蓮地藩に召し上げられ、藩営の浴場となりました。その浴場は、大名から一般庶民までが利用できましたが、浴場は身分に応じて細かく区別されていたそうです。この藩営浴場だったところが古湯でした。大正13年にこの古湯の地に、ドイツ人の設計によって公衆浴場「古湯」が建てられました。赤い屋根の洒落た木造三階建てのゴシック調の建物で、長い間嬉野温泉のシンボルとなっていまhしtが、老朽化のため、平成8年に閉鎖、平成17年6月に解体されました。現地には、『古湯温泉は、新しく生まれ変わります。』という嬉野市の看板が建っていました。市が買い取って整備させるのでしょう。下の写真は、大正13年建設当初の古湯のスケッチ絵(看板を撮影)。嬉野

          
 シーボルトの足湯

オランダの外科軍医小佐であったシーボルトは嬉野温泉に立ちより、藩主のみが使う温泉でくつろいだといわれます。古湯のすぐ近くの湯遊広場には、『シーボルトの足湯』と名付けられた足湯があり(写真上)、憩いの場所になっています。

           嬉野温泉湯豆腐


藩営の温泉場であった古湯温泉に隣接する東屋は、藩の『湯の番所』でした。東屋の先々代が明治の中頃、嬉野川の古湯温泉付近の水を使い豆腐を造り、川の近くより湧き出る温泉水を利用して美味で胃腸によい温泉湯豆腐を造り始めたのが、嬉野温泉湯豆腐のはじまりだそうです。名物の湯豆腐は湯が白濁し、豆腐がトロトロ、その秘密は、温泉の重曹成分の多さにあるそうです。ためしてガッテン(NHK総合TV)によれば、豆腐を溶かすことのできた温泉水は嬉野温泉と道後温泉のものだけだったそうです。あちこちに湯豆腐の看板が(写真上)。


嬉野温泉は現在、嬉野川沿いに60軒余りのホテ ル・旅館が軒を並べています(写真下)。

三月十四日 曇、時々寒い雨が降つた、行程五里、また好きな嬉野温泉、筑後屋、おちついた宿だ(三〇・上)


此宿の主人は顔役だ、話せる人物である。友に近状を述べて、――
嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところです、
私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます、云々。
楽湯――遊於湯――何物にも囚へられないで悠々と手足を伸ばした気分。
とにかく、入湯は趣味だ、身心の保養だ。


      構口(町木戸)跡

江戸時代、長崎街道が通過する嬉野町は、佐賀藩の支藩・蓮地藩の支配地で、宿場は当時、嬉野湯宿または嬉の湯町ともよばれ、宿場の東西端には街道に町木戸を備え、宿場の境界を示しこの場所を構口(かまえぐち)と呼んでいました。、宿場の長さは約500mで平時は監視する人もいない木戸でしたが、変事の時には防御のための施設として重要な役割を担っていました。西構口跡の碑が、大正屋の入口に建てられています(写真上)。
宿場内には、30軒余の旅籠、木賃宿や商家など百軒程のわら屋根の家が街道沿いに建ち並び、宿場の中央には、豊玉姫神社、その隣にお茶屋(上使屋)、人馬継立所、高礼場等があり、嬉野川沿いには藩営の温泉浴場が設けられていました。また、長崎奉行所などが宿泊する本陣は、街道から北へ約300m離れた瑞光寺が利用されていました。

『嬉野温泉湯豆腐』の案内も(写真上)。宿泊した大正屋(写真右)。大正屋の前にある、いかにも立派な店構えの『草野製茶園』。

三月十五日 十六日 十七日 十八日 滞在、よい湯よい宿。


朝湯朝酒勿体ないなあ。

駐在所の花も真ッ盛り(追加)

  さみしい湯があふれる
  鐘が鳴る温泉橋を渡る


余寒のきびしいのには閉口した、湯に入つては床に潜りこんで暮らした。
雪が降つた、忘れ雪といふのださうな。
お彼岸が来た、何となく誰もがのんびりしてきた。

 ざれうた
うれしのうれしやあつい湯のなかで
  またの逢瀬をまつわいな
わたしやうれしの湯の町そだち
  あついなさけぢやまけはせぬ
たぎる湯の中わたしの胸で
  主も菜ツ葉もとけてゆく

もつとも温泉は満喫したが、嬉野ガールはまだ鑑賞しない!
方々からのたより――留置郵便――を受取つてうれしくもありはづかしくもあつた、
昧々、雅資、元寛、寥平、緑平、俊の諸兄から。緑平老の手紙はありがたすぎ、
俊和尚のそれはさびしすぎる、どれもあたゝかいだけそれだけ一しほさう感じる。

こゝに落ちつくつもりで、緑、俊、元の三君へ手紙をだす、緑平老の返事は私を失望せしめたが、
快くその意見に従ふ、俊和尚の返事は私を満足せしめて、そして反省と精進とを投げつけてくれた。

とにもかくにも歩かう、歩かなければならない。
こゝですつかり洗濯した、法衣も身体も、或は心までも。

  春が来た旅の法衣を洗ふ


井手酒造
店先に、『嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が・・・』の山頭火の句碑(写真上)が建てられている造り酒屋『井手酒造』。

温泉街の中心部にあって、明治元年創業当時の面影を留める酒蔵が残されています(写真下)。

昭和7年1月31日の行乞記では、飲んだ、たらふく飲んだ、造酒屋が二軒ある、どちらの酒もよろしい、酒銘『一人娘』『虎の児』とありますが、今は井手酒造一軒だけになっています。

明治元年、創業者の井手與四太郎は、製茶の研究や海外輸出等に専念する傍ら、嬉野川の清水を利用し酒造業を創め、『虎はわが児を思う情けが非常に深い、その虎の児のように情けをかけ長く愛飲してもらいたい。そして千里を走る虎のように、その名が広く響き渡るように』との願いを込めて名付けのが、『虎之児』だそうです。

来店されると井手酒造製造の酒を試飲できるそうです。営業時間:8時30分〜19時、休業日:毎週日曜日



小入無間、大絶方所、自由自在なところが雲水の徳だ。
今日は一室一人で一燈を独占して読書した(一鉢までは与へられないけれど)。
先日来同宿の坊主二人、一は常識々々と口癖のやうにいふ非常識な男、他は文盲の好々爺。
こゝの主人公は苦労人といふよりも磨かれた人間だ、角力取、遊人、世話役、親方、等々の境地をくゞつてきて本来の自己を造りあげた人だ、強くて親切だ、大胆であつて、しかも細心を失はない、木賃宿は妻君の内職で、彼は興行に関係してゐる、話す事も行ふ事も平々凡々の要領を得てゐる。
彼からいろ/\の事を聞いた、相撲協会内部の事、茶の事、女の事。……
嬉野茶の声価は日本的(宇治に次ぐ)、玉露は百年以上の茶園からでないと出来ないさうである、茶は水による、水は小川の流れがよいとか、茶の甘味は茶そのものから出るのでなくて、茶の樹を蔽ふ藁のしづくがしみこんでゐるからだといふ、上等の茶は、ぱつと開いた葉、それも上から二番目位のがよいさうである。
マヲトコツクル(勇作)の情話も愉快だつた。

玉姫神社
豊玉神社(写真上)は、温泉街の中心部にある神社。祀られている豊玉姫は、あの有名な海の神の娘・竜宮城の乙姫様で、古来より海の神、水の神として広く祟敬を集めているそうです。

豊玉神社のお遣いは『なまず』で、嬉野川を支配し、郷の守りについていて、国に大難あるときには六尺(2m前後)の大なまずが現れて、神託を告げると語り伝えられています。この『なまず様』(写真右)は古来より『肌の病』にご利益があるといわれ、『なまず様』を祀ったなまず社にお参りすると、お肌がきれいになるといわれています。



三月十四日 曇、時々寒い雨が降つた、行程五里、また好きな嬉野温泉、筑後屋、おちついた宿だ(三〇・上)

此宿の主人は顔役だ、話せる人物である。友に近状を述べて、――
嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところです、
私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます、云々。
楽湯――遊於湯――何物にも囚へられないで悠々と手足を伸ばした気分。
とにかく、入湯は趣味だ、身心の保養だ。


三月十九日 お彼岸日和、うらゝかなことである、滞在。

今朝は出立するつもりだつたが、遊べる時に遊べる処で遊ぶつもりで、湯に入つたり、
酒を飲んだり、歩いたり話したり。
夢を見た、父の夢、弟の夢、そして敗残没落の夢である、寂しいとも悲しいとも何ともいへない夢だ。
終日、主人及老遍路さんと話す、日本一たつしやな爺さんの話、生きた魚をたゝき殺す話などは、
人間性の実話的表現として興味が深かつた。
元寛君からの手紙を受取る、ありがたかつた、同時にはづかしかつた。

瑞光寺
禅宗臨済南禅寺派に属し、応安2年(1369年)嬉野氏が創建。長崎街道嬉野宿には藩営の上使屋がありましたが、手狭で破損もひどかったので、嬉野家没後は蓮池藩の保護を受け、明治2年(1765年)から文久2年(1862年)の98年間は長崎街道を往来する奉行の嬉野宿本陣として使用されました。今も地蔵堂には当時を物語る藩の紋章が入った瓦が残っています。3,000坪に及ぶ境内は四段に整備され、老樹が茂り荘厳な雰囲気を醸しだしています。本尊は木造の薬師如来で運慶のつくりだと言われています。

山頭火は、彼岸会説教を聴聞に拝登しています。


三月廿日 曇、小雪、また滞在してしまつた、それでよか/\。


老遍路さんと別離の酒を酌む、彼も孤独で酒好き、私も御同様だ、下物は嬉野温泉独特の湯豆腐(温泉の湯で煮るのである、汁が牛乳のやうになる、あつさりしてゐてうまい)、これがホントウのユドウフだ!
夜は瑞光寺(臨済宗南禅寺派の巨刹)拝登、彼岸会説教を聴聞する、悔ゐなかつた。――
応無所住而生其心(金剛経)
たゝずむなゆくなもどるなゐずはるな
  ねるなおきるなしるもしらぬも(沢庵)
先日来の句を思ひだして書いておかう。――

  湯壺から桜ふくらんだ
  ゆつくり湯に浸り沈丁花
   
  寒い夜の御灯またゝく



※ 行乞記(種田山頭火)は、青空文庫の『行乞記(二)』を転載しました。データはつぎの通り。
底本:「山頭火全集 第三巻」春陽堂書店
   1986(昭和61)年5月25日第1刷発行
   1989(平成元)年3月20日第4刷
入力:さくらんぼ
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。
入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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