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旅行記 ・内子町八日市護国 − 愛媛県内子町  2020.02.04
 ようかいちごこく
八日市護国
(国選定・重要伝統的建造物保存地区)
高昌寺付近
内子町(うちこちょう) 愛媛県喜多郡内子町は、愛媛県のほぼ中央、県庁所在地である松山市から約40キロメートル 南西の、南予地方に位置する町です。古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町で、江戸時代から明治時代にかけ、和紙と木蝋の生産で栄えました。
常夜燈のある風景
特に木蝋は品質の高さで海外でも評価されるほど名を馳せ、最盛期には全国生産の約30パーセントを占めました。大正時代以降は、石油や電気の普及によって木蝋生産は衰微しましたが、当時の繁栄ぶりを伺わせる商家群の町並みを『八日市道路』に沿って見ることができます。『八日市護国』の歴史的な町並みは、1982年(昭和57年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。(以上、Wikipediaなどより)
どこか懐かしい風景
八日市護国伝統的建造物群保存地区 内子は、江戸時代の中期から、在郷町として栄えた町である。かつての市街地は、願成寺を中心にした廿日市村、現在の商店街を核にした六日市村、小田川の対岸の知清村の四つから成り立っていた。地場産業としては肱川支流に点在する集落では大洲藩の専売品として和紙が生産された。
社会見学の学童たち
江戸時代の末期から明治時代には、ハゼノキの実から搾出した生蝋(きろう)を良質の晒蝋(さらしろう)すなわち白蝋(はくろう)に精製し、広く海外に輸出するまでになった。八日市・護国の伝統的な街並みは、かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交ったところで、蝋商芳賀(はが)家を中心に、二階建、平入り、瓦葺の主屋が600メートルにわたって連続する。
郵便ポストのある風景
伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである。正面は蔀戸(しとみど)や格子の構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめている。内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存事業に取り組んでいる。平成30年1月 愛媛県内子町。(以上、現地説明板より)
木蝋資料館・上芳我邸(右手)
木蝋資料館(もくろうしりょうかん)・上芳我邸(かみはがてい) 上芳我家は、内子の木蝋生産の基礎を築き、その発展の中心となった芳我家の分家で、文久元年(1861年)に現在地に出店を構えました。本家を本芳我家(ほんはがてい)と呼ぶのに対して、上芳我家と通称されています。
中庭から見る上芳我邸
主屋は内子の木蝋産業の最盛期であった明治27年(1894)に上棟され邸内には釜場、出店倉、物置などの木蝋生産施設も一体で残されており、往時の暮らしぶりや地場産業と住宅の関わりをうかがうことができます。現在は、内子の繁栄を支えた木蝋産業について今に伝えるために、内子町が設置した資料館になっています。
木蝋づくりの道具の数々
蝋はハゼノミから採る蝋のことで蝋燭や鬢付け油、光沢剤や化粧品など様々な用途に使われました。平成6年(1994年)に整備された展示棟では、内子町が収集した重要有形民俗文化財に指定させている『内子及び周辺地域の製蝋用具1,444点』の一部が展示されています。
中庭越しに眺める上芳我邸
八日市護国の特徴 製蝋業を営む長屋棟が数多くみられるが、町並み保存地区全体に自立した都市施設が残されているのは全国的に珍しい。黄みを帯びた漆喰で塗り込められた重厚な外壁が特徴であり、漆喰壁を持つ建物は地区全体の70%を超える。ほとんどの建物が切妻造の2階建てで軒線が通されている。物が同じ町並みに共存しているのは全国的にあまり例がない。
八日市護国の町並み
そして、海鼠壁、懸魚、鏝絵、虫籠窓、出格子、鬼瓦、鳥衾(とりぶすま)など多種多様な意匠を持つ建物が多い。江戸時代中期以降、大火に見舞われることがなく、和紙と木蝋によって得られた富から質の高い町家が建てられた。山裾の傾斜地にあったことから都市開発が遅れ、結果として伝統的な建物が数多く残されることになった。後期から昭和初期にかけての様々な年代の伝統的建築
八日市護国の町並み
江戸時代後期から昭和初期にかけての様々な年代の伝統的建築物が同じ町並みに共存しているのは全国的にあまり例がない。19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリ万国博覧会・シカゴ万国博覧会・内国勧業博覧会で数々の表彰を受けたことで、内子の木蝋は日本を代表するブランドとなった。(以上、Wikipediaより)
本芳我(ほんはが)家住宅
重要文化財・本芳我(ほんはが)家住宅 本芳我家は、製蝋業で栄えた芳我一族の本家で、内子木蝋の基礎を築いた家である。元文元年(1736年)から木蝋生産を始めたとされ、天保11年(1840年)に現在地に移り、大規模に経営を展開した。明治期には『旭鶴』の商標で海外にも製品を輸出し隆盛を極めた。
あたらし屋(八日市資料館とあります)
文久元年(1861年)以降は、分家やその分家が相次ぎ、それぞれ上芳我、中芳我などの通称で呼ばれている。建物は木蝋生産がもっとも盛んであった時代を背景に建築され、建物の質が良く、亀甲形の海鼠(なまこ)壁や鶴・亀・波などの華麗な漆喰細工など華やかな意匠は内子の町並みの中でも際立った存在である。(現地説明板より)
『八日市護国伝統的建造物群保存地区』の標識
重要文化財・大村家住宅 大村家は、江戸時代から大和屋と称す商家であった。江戸期の商売は定かではないが、明治時代中頃には藍作り、染物商を営んだ。その後、明治30年(1897年)から大正5年(1916年)頃までは、生糸製造に関わった。主屋は寛政年間の建築で、町内でも最古級の町家である。
大村家住宅(左手前、右隣りは本芳我邸)
桁行10.7メートル、梁間 9.0メートル、切妻造、桟瓦葺の建物で、正面二階には額縁付の連子窓(れんしまど)三つを開け、建物を特徴づけている。主屋の背後には明治18年(1885年)建築の裏座敷があり、敷地内に独立して木小屋と藍蔵がある。 大村家は内子で木蝋が盛んになる以前の古い主屋を持ち、江戸時代後期から明治期の町家の状況がわかる貴重な建物である。(現地説明板より)。
本芳我(ほんはが)家住宅(左手)
懸魚(げぎょは、屋根の破風板につけて棟木や桁の木口を隠す、彫刻や透彫りの飾り板のことです。 棟木や桁の木口を風雨から守るためにつけた板が装飾化したものと言われています。一方、鏝絵(こてえ)は、漆喰を用いて作られるレリーフのことで、左官職人が壁を塗る鏝(こて)で仕上げていくことからその名がつきました。
懸魚と鬼瓦(本芳我邸)
虫籠窓(むしこまど)は、窓の形式のひとつで、目の細かい縦の格子が等間隔に並ぶ虫籠格子(むしこごうし)をつけた窓のことで、虫篭窓、虫子窓、蒸子窓などとも書かれ、形状が虫籠(むしかご)に似ているところからこの名があるとも、竹を編んで作った蒸子(むしこ、蒸籠)に似ているところからともいわれています。
鏝絵と虫籠窓
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