♪シチリニアーノ(バッハ)
Piano1001
津和野の風景− 島根県津和野町
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山陰の小京都・津和野(島根県鹿足郡津和野町)を初めて訪れたのは2001年10月のことでした。旅行誌などで道路端の掘割水路に鯉の泳ぐ写真をよく目にしていたので、広々と広がった平地のイメージを持っていましたが、津和野は谷川に沿った谷間(たにあい)の、思ったより狭い町だったという印象を思い出します。それから7年後、今回はニ回目の訪問になりました。ルートは7年前と同じ、萩から県道萩津和野線を使った1時間半のドライブ。『つわぶきの生い茂る野』をその名のルーツにもつ山紫水明の自然に、津和野藩城下町の名残を残す武家屋敷と白壁の町並みは、小京都の代表格としての雰囲気を醸し出しています。晩秋の津和野の風景をアップロードしました。                  (旅した日 2008年11月)
 
 
SLやまぐち号
昭和40年代、国鉄の近代化・合理化により姿を消した蒸気機関車(SL)が、当時の国鉄総裁の大英断で昭和54年(1979年)8月1日、山口線に復活しました。現在、『貴婦人』の愛称で親しまれるC571が、山頭火が愛した新山口を出発し、湯田温泉、「山口、長門峡を経て、津和野までの62.9kmを約2時間かけて走ります。3月から11月の土日祝に一日一往復の運行。写真は、津和野川を渡るC571。2008年11月2日15時39分撮影。
 
 SLの煙臭去って暮れの秋  ワシモ


殿町通り
本町通りの入口から見た殿町通り(写真上)
津和野は津和野川に沿う南北に細長い谷間の町です。県道を南から谷間の町中に下りて津和野大橋を渡り切った交差点を右折すれば殿町通り。かつて家老屋敷が隣接していた通りで、津和野藩校養老館跡や隣接する町民センター、そして津和野カトリック教会辺りのなまこ塀と掘割りに泳ぐ鯉の風景は、小京都・津和野のシンボル的風景になっています。
旧津和野藩家老多胡家表門(写真上)
通りをはさんで養老館の向かい側には、間口4m、長さ26mの立派な武家屋敷門が今も残っています。亀井氏11代にわたって家老職を務めた多胡家の長屋門です。隣りには、同じく家老だった太岡家が隣接しており、門を入ると古いたたずまいが印象的な津和野町役場になっています。
なまこ壁に掘割の鯉の風景(写真左・下)
大鯉の肥りて津和野秋麗ら  ワシモ
 
 
藩校・養老館跡あたり
旧津和野藩校・養老館跡(写真上)
津和野藩校養老館は天明6年(1786年)、亀井八代藩主矩賢の創建によるもので、当初は城下の下中島にありましたが、大火により焼失したため、安政2年(1855年)この位置に建設されました。現在の建物の左には講堂・塾が続き左奥には弓砲術場・職工場・弾薬庫があったそうです。
町民センター・津和野もみじ茶会(写真下)
町民センター前で、人力車めでたい屋(写真上)
養老館は、西周(明治の先哲)、森鴎外(文豪・軍医総監)、福羽美静(元老院・明治天皇待講)、中村吉蔵(劇作家・文学博士)、山辺文夫(東洋紡初代社長)など、全国に名を馳せた多くの俊才を輩出した藩校でした。養老館に隣接する県民センターでは、ちょうど『津和野もみじ茶会』が開催されていました(写真左)。
養老館の向かい側の津和野町役場(写真下)
 
 
 
本町通り
殿町通りの北に続く本町通りの入口(写真上)
殿町通りの北端の信号機のある交差点を越えると本町通り。津和野藩は、藩主亀井氏の主導で商業産業が強く奨励されたところで、醸造業や製紙業が立地し、とくに紙は石州和紙として津和野の特産品でした。本町は、かつての商人の町。連子格子や石州瓦の重厚な屋敷が軒を連ね、通りには今も白壁の土蔵が残り、造り酒屋や薬局など、趣のある老舗も点在しています。
『初陣(古橋酒造)』(写真下)
分銅屋七右衛門(写真上)
津和野の清酒には、『初陣』(古橋酒造)、『魁龍・華泉』(石州・華泉酒造)、『高砂』(財間酒場)があります。写真左は、明治11年創業の古橋酒造。写真上は、江戸時代の終わりに建てられた蔵を改装し、お店としてオープンした『分銅屋七右衛門』は、お香や和ろうそくの他、津和野の伝統工芸品の石州和紙で作られた便せんなどを売る古風な雰囲気の店です。
本町通りに直交する路地(写真下)
  
  
  
歴史の佇まい
殿町通りの北端にある沙羅の木・『松韻亭』(写真上)は津和野藩第三家老の屋敷跡で、閑静な日本庭園を眺めながら、手づくりの季節料理とお抹茶が味わえます。『杜塾美術館』(写真下左)は、津和野藩筆頭庄屋であった屋敷を修理し、津和野出身の画家中尾彰と吉浦摩耶の作品を展示している美術館。武家屋敷が並ぶ殿町通りでひときわ異彩を放つ『津和野カトリック教会』(写真下右)。荘厳な雰囲気のゴシック様式の石造建築ですが、内部は24畳敷きの和風の造りになっており、ステンドグラスが美しいです。


 
太皷谷稲成神社
津和野大橋のたもとににある大鳥居(写真上)
南から県道を中心街へ下りてくるとき左での山中腹に見えるのが太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)。全国四万社あるお稲荷さんの中で『稲成』と書くのはここ一社だけというのが珍しく、特に朱色のトンネルのように続く壮観な『千本鳥居』(写真左)が人気を集めています。
 
中心街に入って津和野大橋を渡り切って交差点を右折すると殿町通り、一方左折すると太皷谷稲成神社の大鳥居(写真上)を潜ることになります。徒歩だと本殿(写真下)まで片道約15分。
 
太皷谷稲成神社の歴史は、安永2年(1773年)、津和野藩7代藩主亀井矩貞が、藩の領民安寧のために京都の伏見稲荷大社から勧請を受け、三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したのに始まます。以降、歴代藩主の崇敬を受け、廃藩後は庶民も参拝できるようになり、中国地方有数の稲荷神社となりました。現在は『日本五大稲荷』を称しています(他の4社は伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒神社・祐徳稲荷神社)。昭和10年(1935年)に郷社に列格。〜歴史については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より。
壮観な千本鳥居(写真左)と本殿(写真下)
 
 
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