御影堂に掲げられた『誕生律寺』の扁額 |
ところが、保延7年(1141年)の春、漆間家は突然、明石源内武者定明(むしゃさだあきら)の夜襲を受けます。定明は稲岡庄の預所(あずかりどころ、年貢徴集や荘地の管理などにあたった職)でしたが漆間時国の人望を妬み夜討ちに及んだのです。
そのとき9歳だった勢至丸は小弓で敵将の定明を射たといわれます。右目を射られた定明は配下とともに引き上げたましたが、父の時国は深手を負って四十三歳の生涯を終えます。父時国は、臨終に際し勢至丸に仇(かたき)として定明を追うことをいましめ、『仏道を歩み、安らぎの世を求めよ』と遺言します。当時の世相としては、全く卓然(たくぜん、ひときわ抜きん出ているさま)とした人生指針でした。 |
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法然上人の生い立ち |
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法然上人は、平安時代の末期、長承2年(1133年)、美作国(みまさかのくに)久米南条稲岡庄(くめなんじょう いなおかのしょう)に誕生します。父は、この地方を監督する押領使だった漆間時国(うるまときくに)、母は秦氏(はたうじ)。
長く子宝に恵まれなかった時国夫婦は、子が授かるよう観音さまに祈願します。すると、やがて玉のような男子を授かります。誕生の時、天の彼方から二流れの白い幡(はた)が飛んできて、庭の椋(むく)の木に掛かり、美しく輝き、七日の後再び飛び去ったといわれます。以来、この椋は両幡(ふたはた)の椋、誕生椋と呼ばれています。こうして生まれた待望のひとり児は、勢至丸(せいしまる)と名付けられ、健やかに成長していきます。 |
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鐘楼 |
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