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旅行記 ・誕生寺 〜 法然上人を訪ねて − 岡山県久米南町  2011.05
誕生寺
正徳5年(1716年)建造の山門(国指定重要文化財)。
 
誕生寺
誕生寺(たんじょうじ)は岡山県久米郡久米南町にある法然上人(ほうねんしょうにん、1133〜1212年)生誕地に建造された浄土宗の寺院。山号は栃社山(とちこそさん)。本尊は圓光大師(法然没後しばらくして、朝廷から贈られた大師号)。法然の弟子となり出家し法力房蓮生と名乗った坂東武者・熊谷直実は、建久4年(1193年)法然の徳を慕い法然の父である久米押領使(おうりょうし、この地方の監督)・漆間時国(うるまときくに)の旧宅、すなわち法然上人生誕の地に寺院を建立しました。
山門からみる境内、『逆木の公孫樹(いちょう)』 
  
これが誕生寺の始まりで、かつては誕生律寺と呼ばれており、本堂である御影堂には『誕生律寺』の扁額が掲げられています。御影堂は二度の損壊の後、現在のものは元禄8年(1695年)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。同じく国の重要文化財に指定されている山門は、正徳5年(1716年)に建造されたもので、付帯する筋塀は安政4年(1857年に)伏見宮家より寄進されたものです(以上、ウィキペディアより)。
山門の付帯する筋塀は伏見宮家より寄進されたもの。
 山門を入った境内のすぐの所に枝を広げる『公孫樹』
 公孫樹(いちょう)
久安三年(1147年)十五歳の勢至丸(法然上人)は、比叡山に旅立たれる際、高円菩提寺より杖とされた銀杏の枝をこの地にさされたところ生着繁茂し、根が上に伸び『逆木の公孫樹』(さかきのいちょう)ともいわれる。
 本堂である御影堂。現在のものは、元禄8年(1695年)に再建されたもの(国の重要文化財)
 御影堂(本堂)国指定重要文化財
御影堂に位置はかつて八五〇年前、美作の豪族、漆間時国公、秦氏君夫妻の館であった。時国公は久米の押領使(その地方の治安の維持を任務として役)で長承二年の四月七日(一一三三年)に二人の間に、のちの浄土門開祖、法然上人(幼名勢至丸)が御誕生ざれ、上人が幼少九歳まで御両親とすごされた場所である。開山は上人の弟子、熊谷蓮生法師で現在の御影堂は元禄八年の三度目の再建である、御本尊は法然上人四十三才の御自作像で、熊谷入道が上人六十一才の時、師の命により上人御両親の墓前に安置されたもので、のちの代、後光と蓮台をそえ当山の御本尊として今日に至っている(現地説明板より)。
御影堂に掲げられた『誕生律寺』の扁額
  
ところが、保延7年(1141年)の春、漆間家は突然、明石源内武者定明(むしゃさだあきら)の夜襲を受けます。定明は稲岡庄の預所(あずかりどころ、年貢徴集や荘地の管理などにあたった職)でしたが漆間時国の人望を妬み夜討ちに及んだのです。
  
そのとき9歳だった勢至丸は小弓で敵将の定明を射たといわれます。右目を射られた定明は配下とともに引き上げたましたが、父の時国は深手を負って四十三歳の生涯を終えます。父時国は、臨終に際し勢至丸に仇(かたき)として定明を追うことをいましめ、『仏道を歩み、安らぎの世を求めよ』と遺言します。当時の世相としては、全く卓然(たくぜん、ひときわ抜きん出ているさま)とした人生指針でした。
  法然上人の生い立ち 
法然上人は、平安時代の末期、長承2年(1133年)、美作国(みまさかのくに)久米南条稲岡庄(くめなんじょう いなおかのしょう)に誕生します。父は、この地方を監督する押領使だった漆間時国(うるまときくに)、母は秦氏(はたうじ)。
 
長く子宝に恵まれなかった時国夫婦は、子が授かるよう観音さまに祈願します。すると、やがて玉のような男子を授かります。誕生の時、天の彼方から二流れの白い幡(はた)が飛んできて、庭の椋(むく)の木に掛かり、美しく輝き、七日の後再び飛び去ったといわれます。以来、この椋は両幡(ふたはた)の椋、誕生椋と呼ばれています。こうして生まれた待望のひとり児は、勢至丸(せいしまる)と名付けられ、健やかに成長していきます。
鐘楼
『旅立ちの法然さま』の像
『秦氏さま』のご尊像(平成22年11月建立)
 『秦氏さま』ご尊像建立に寄せて
宗祖法然上人八百年大遠忌に際し、浄土宗寺庭婦人会では、法然上人御母君『秦氏さま』のご尊像をここ誕生寺に建立し、改めてご遺徳を偲び末永く顕彰申し上げることと致しました。秦氏さまの勢至丸様に寄せられた深い愛と比叡山に向かってのひたすらな『祈り』のお姿を道標とし、願わくばこの殺伐とした社会が潤いある豊かな報土とならんことを切望いたします。
                              平成二十二年十一月十二日  浄土宗寺庭婦人会   
                                                  橋本堅太郎  謹作
                                                 題字謹書 西村綾子
 法然上人御両親御霊廟『勢至堂』(せいしどう)
新緑の下の片目川
   
しかし、この子をこの地に留め置くことは、夫時国の遺志に背くことになります。我が子の力強い求道の姿に涙しながら、比叡山行きを承知する母でした。母秦氏はその秋、遠隔の勢至丸を思いつつ三十七歳の若さで病没。父母の温かい育みと、絶えがたきを耐え真実の道を指示された、この両親の仏教信行によって、貴族仏教を庶民仏教にし、万民救済の念仏門を開いた法然上人が世に送り出されたのでした(以上、『浄土宗誕生寺-法然上人御生誕之聖地』を参考)。
  
勢至丸は、母の弟である菩提寺の住職、観覚得業(かんがくとくごう)のもと(岡山県と鳥取県の県境にある那岐山の中腹)に引き取られます。観覚は勢至丸の才覚が凡人でないことを知り、京都の比叡山に登って修行するように勧めます。やがて15歳に成長した勢至丸は比叡山での修業を決心、久安3年(1147年)の春、母に別れを告げるために稲岡の里へ帰ってきました。数年前に夫時国を失い、今またたった一人の子である勢至丸を遠い都の彼方へ送ることは母秦氏にとって、忍びがたい悲しみでした。
両幡の椋(ふたはたのむく)・誕生椋(三代目)
勢至堂から眺める境内。橋は片目川に掛かる無垢橋
両幡の椋と片目川
〔両幡(ふたはた)の椋〕長承2年(1133年)4月7日、法然上人御誕生の際、西より白幡二流とび来りて、椋(むく)の梢(こずえ)にかかりて7日の後、とび去る。〔片目川〕保延7年(1141年)の3月18日未明、預所、源内武者定明の夜襲の際、9才の勢至丸は小弓にて定明の右目を射る。定明、川に下りその疵目を洗う。以後この川に片目の魚が出現す。
奥の院 六角堂浄土院(法然上人御両親菩提所) 
【参考サイト】
(1) 誕生寺 (久米南町) - Wikipedia
(2) 浄土宗誕生寺-法然上人御生誕之聖地
 
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