レポート  ・専修念仏(せんじゅねんぶつ)   
− 専修念仏(せんじゅねんぶつ) −
飛鳥時代から連綿として続いてきた律令制度が10世紀に崩壊すると、11世紀、政治は貴族による統治から武家による統治へと移り、政治・経済・社会が劇的な構造変化を起こし、混沌とした世の中に突入します。
  
平安時代の末期、終末論的な末法思想が広まるなかで、保元の乱(1152年)・平治の乱(1159年)が起き、源氏・平氏の争乱期の最中には養和の大飢饉(1181年)が発生します。怨霊思想や地獄思想が蔓延する世の中で、人々は死におびえます。
  
6世紀半ばに仏教がわが国に伝来して以来、仏教は鎮護国家の仏教でしたから、常に救いの対象は、天皇や皇室、公家や貴族など社会の上層部がターゲットでした。身分の高い人々や富める人たちは、地獄から逃れるために金を惜しまず、寄進しあるいは豪華な寺や塔を建立し、神社仏閣に詣で、華やかな法会(ほうえ)を催し、たくさんのお布施をし、死後、美しい浄土に迎えられて仏になることをひたすら願い善行に励みました。
  
しかし、そうした余裕のある人は、ほんに一握りの選ばれた人たちに限られていました。ほとんどの民衆が、その日を暮すのが精一杯のなかで、天災や、凶作や、疫病、大飢饉に苦しみ、世にいう善行などをつとめる余裕などあろうはずがありません。民衆は仏教とは無縁の状態に置かれ、仏教は、不安におののく民衆を救う力を失っていました。
  
そんな時代に登場し、貴族仏教を庶民仏教にし、万民救済の念仏門を開いたのが、のちに浄土宗の開祖とあおがれる法然上人でした。
  
1.法然上人(ほうねんしょうにん)
         
法然上人(1133〜1212年)は、平安時代の末期の長承2年(1133年)、美作国(みまさかのくに)久米南条(くめなんじょう)稲岡庄(現在の岡山県)に、この地方を監督する押領使だった父・漆間時国(うるまときくに)と母・秦氏(はたうじ)のひとり児として誕生しました。
  
勢至丸(せいしまる)と名付けられ、健やかに成長していきますが、9歳のとき、漆間家は、稲岡庄の預所(あずかりどころ、年貢徴集や荘地の管理などにあたった職)だった明石源内武者定明(むしゃさだあきら)の夜襲を受け、父の時国が43歳の生涯を終えます。
  
父時国は、臨終に際し勢至丸に仇(かたき)として定明を追うことをいましめ、『仏道を歩み、安らぎの世を求めよ』と遺言します。勢至丸は、母の弟である菩提寺の住職、観覚得業(かんがくとくごう)のもと(岡山県と鳥取県の県境にある那岐山の中腹)に引き取られます。
  
観覚は勢至丸の才覚が凡人でないことを知り、京都の比叡山に登って修行するように勧めます。やがて15歳に成長した勢至丸は比叡山での修業を決心、母子は恩愛の絆を断ちきって惜別。母秦氏はその秋、遠隔の勢至丸を思いつつ、37歳の若さで病死しました。
  
比叡山に登った勢至丸は、とびきりの大秀才として才覚を発揮し天台宗の教えを学びますが、当時の比叡山は俗化し、僧たちは栄達を求めて権力争いを繰り返すという堕落の極みにありました。勢至丸は、叡山にそのままとどまれば将来、天台座主(天台宗のトップ)の地位も約束されたはずという、出世栄達の道をみずから捨てて、わずか18歳で遁世(いんせい)し、黒谷の別所(本寺から離れて、修行者や念仏聖たちが草庵を結んでいる所)に身を投じます。
  
勢至丸は、そこで『法然房源空』という法名を与えられ、ひたすら求道の毎日を送ることになりました。経蔵にこもっては大全集数千巻という経典を紐解き何度も読み返します。そんな法然上人は、周りから『知恵第一の法然房』ともてはやされますが、  
   
『悲しいことだ、実に悲しいことだ。どうしてよいのか、全く分からない。とうてい自分のような者は、戒律(仏教において守らなければならない、道徳規範や規則のこと)・禅定(精神集中のこと)・智慧(我執の煩悩を取り去って、もののあり方を正しく見る能力)という仏教の根本となっている三つの要素さえ、身につけられる器ではない。そのような愚かな自分にも、ふさわしい教えがあるのか、自分にもできる修行があるのか』と苦悶が続きます。
  
2.専修念仏(せんじゅねんぶつ)
  
しかし、やがて法然上人の長い苦悩に終止符が打たれる日がやってきます。中国の善導(ぜんどう)大師の『観経疏(かんぎょうそ)』(観無量寿経・かんむりょうじゅきょうの注釈書)という本の一節に触発され、『専修念仏』(ひたすら念仏を称えて、他の修行をしない)という立場を確立するのです。
  
   一心(いっしん)に専(もっぱ)ら弥陀(みだ)の名号
   (みょうごう)を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に
   時節の久近(くごん)を問わず、念々(ねんねん)に捨て
   ざるは、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名づ
   く、かの仏(ぶつ)の願(がん)に順ずるがゆえに。
  
『一心にもっぱら阿弥陀仏のお名前を称え、行動しているときも家にいるときも、寝てもさめても、時のいかんをとわず、いつでもその仏をひと時も忘れず、心の中にけっして捨てることのないことを、本当に正しい行いというのです。なぜならば、それが阿弥陀仏の衆生を救うという誓願による行いだからです』という一節でした。
  
修業もいらぬ、学問もいらぬ、悟りをもとめる発心(ほっしん)もいらぬ、仏法の教えを捨て、知識を捨て、加持祈祷も、難行苦行も、女人の穢(けが)れも、十悪五逆の悪の報いも、物忌みも、戒律も、なにもかも捨て去って、あとに残るただ一つのものが『念仏』である。
  
知恵第一とたたえられた法然上人の30余年にわたる精進の収穫は、いっさいの知恵学問を捨て去ることでした。そして、ただひたすら念仏を称えれば阿弥陀仏がすべての人を救ってくださるということを悟ったのです。承安5年(1175年)春、上人43歳のときでした。
  
この『専修念仏』の思想に確信を持った法然上人は、やがて比叡山を下り、あらゆる階級、あらゆる種類の人々と縁を結んで帰依を受け、天皇やその親族、関白や公卿、将軍や武士などのみならず、一般民衆から盗賊、遊女に至るまで、あらゆる人々に教えを説き、救いの手を差しのべたのでした。
  
『南無阿弥陀仏』と称えればみな平等に救われる、という法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力があって善行をつとめたものだけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは異質で画期的なものでした。法然上人の教えは、時の関白であった九条兼実(くじょうかねざね)など貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れらました。
  
3.そして親鸞へ
  
法然上人の教えは、門弟となった親鸞(没後に門弟たちによって浄土真宗が開かれ、その宗祖とされる)によって、法然上人の説く真実の教えとして継承され、他力本願(阿弥陀仏が差し伸べる救い(他力)によって往生する)や悪人正機(善人なおもて往生す、いわんや悪人をや)などの教えが展開されていきます。
 
法然上人については、下記の旅行記が参考になります。
◆旅行記 ・誕生寺 〜 法然上人を訪ねて − 岡山県久米南町
  → http://washimo-web.jp/Trip/Tanjyouji/tanjyouji.htm
  
〔補遺〕
『南無阿弥陀仏』(なむあみだぶつ)は、サンスクリット語(古代から中世にかけてインド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語)の発音を中国語に置き換えたもので、日本語の漢字は当て字なので意味はなく、サンスクリット語の解釈が重要です。”南無 ”はナマス( amo)と発音され、『屈する』という意味から、『わたしは帰依します』と訳されます。”阿弥陀”はアミターバ( amitaabha )の amitaを 略出したもので、『無量の光明』という意味です。
  

【参考にした図書とサイト】
(1) 五木寛之・著『親鸞(上)』(講談社/2010年(平成22年)1月発行)
(2) 五木寛之・著『親鸞(下)』(講談社/2010年(平成22年)1月発行)
(3) 心の時代へようこそ、法然を語る(1)〜(12)
(4) 浄土宗誕生寺-法然上人御生誕之聖地
(5) 浄土宗大本山 光明寺
(6) 親鸞 : 専修念仏(せんじゅねんぶつ)
(7) 法然と浄土宗と 専修念仏・南無阿弥陀仏!
(8) 南無阿弥陀仏 - Wikipedia
 

2011.06.22  
あなたは累計
人目の訪問者です。
 − Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.−