♪Prologue
Kaseda Music Labo
備中松山城と高梁 − 岡山県高梁市
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岡山県の内陸山岳地帯を南北に流れる高梁(たかはし)川の両側の谷間に形成された高梁市街は、備中松山藩の城下町でした。市街地の北端に位置する臥牛山(がぎゅうざん)の山頂には現存天守を持つ山城としては最も高い城といわれる備中松山城の天守が美しい姿で建ち、その南麓には、藩政当時の面影を色濃く残す白壁の長屋門や土壁が静かに佇んでいます。徳川慶喜のとき幕府老中職にあった第7第藩主板倉勝静は明治維新成立後、官軍との徹底抗戦を構えますが、藩主を説得し備中松山城の無血開城を果たしたのが藩改革者として世に知られた山田方谷(ほうこく)でした。そんな歴史を持つ備中松山城と小京都と呼ばれる高梁のいくつかの風景をアップロードしました。    (旅した日 2007年06月)  


備中松山城
標高430mの臥牛山(がぎゅうざん)の頂上に建つ天守(写真上・下)は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が城を築いたのを起源とし、天和3年(1683年)に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
天守にたどり着くには、高梁駅より車でふいご峠まで20分、そこから傾きの急な山道を20分歩かなければなりません。かねての運動不足が露呈される有様でしたが、登り切ると、白い漆喰塗りの壁と黒い腰板が空の青に映えて美しい天守が現れました。
これでは毎日のことには、殿様も登城が大変だろうなと思いきや、『御根小屋(おねごや)』と呼ばれる建物が別途、山裾に建てられていて、藩主の日常生活や政務はそこで行なわれていたそうです。
登城坂には巨大で切り立った岩壁が高くそびえ(写真上・下)、昔日のつわものたちが舌を巻いたという『難攻不落の名城』の面影をうかがい知ることができました。
備中高梁
高梁市は、高梁川(写真の中央右)が中央部を南北に貫流し、その両側に吉備高原が東西に広がる人口3万8千余のそう大きくない市です。写真は、備中松山城登山道より望む高梁市街。
石火矢町ふるさと村
臥牛山麓から南に250メートルにわたって延びる武家屋敷通りの両側に白い土塀が続き、明治維新以後130年以上になる現在も往時の面影を色濃くとどめています。この町並みと紺屋川筋の美観地区が『石火矢町ふるさと村』として町並み保存されています。映画『男はつらいよ』のロケ地にもなった町並みです。写真の背後が臥牛山。
武家屋敷・旧折井家(写真上) 南北に通る上家中屋敷地だった石火矢町にある武家屋敷・旧折井家は、天保年間(1830〜44年)に、200石前後の武士が住んでいた住居を再現したものです。
頼久
草創は不明ですが、暦応2年(1339年)に足利尊氏が再興して備中の安国寺と号し、さらに永正元年(1504年)、時の備中松山藩主上野頼久が一新して『安国頼久寺』と改称しました。その庭園は小堀遠州による作庭と伝えられ、昭和49年(1974年)、代表的名江戸初期の庭園として国の名勝に指定されました。元治元年(1864年)第一次長州征伐が起こった際、征討軍に対応するため山田方谷は頼久寺に入り藩士を指揮しました。境内南側には方谷寓居跡の碑が建立されています。

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