公園から延平郡王祠を見る(写真上) |
また、日本においては、江戸時代の1715年(正徳5年)、当時63歳だった近松門左衛門が、鄭成功のモデルを主人公にした人形浄瑠璃『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん)を完成させます。隣国である中国に題材を求めたことや、中国人と日本人の混血である主人公は、鎖国下において非常に人気を集め、大阪竹本座で17ヶ月連続興行を続けるという大ヒットになったといわれます。
台湾は、日本植民地時代から戦後の国民党政権時代を経て今日に至っていますが、鄭成功は、体制や時代を越えて、台湾、中国そして日本の人々の誇り高き英雄とされてきました。 |
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鄭成功は、彼自身の目標である『反清復明』を果たすことなく死去し、また台湾と関連していた時期も短いでしたが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖あるいは『ピルグリム・ファーザーズ』)として社会的に極めて高い地位を占めています[1]。
1683年に台湾鄭氏が全滅すると、清朝は台湾を直轄化しましたが、1700年、清の康熙(こうき)帝は鄭成功を明の遺臣と認め、遺骸を福建省南安に埋葬して建廟することを許しました。現在は中国でも民族英雄として尊崇されています。 |
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