♪ハープシコード協奏曲第5番
Piano1001

    
    
旅行記 ・延平郡王祠と赤嵌楼 - 台湾の旅(5)  2010.06
えん ぺい ぐん おう し
延平郡王祠
延平郡王祠の入口(写真上)
『延平郡王祠』(えんぺいぐんおうし)は、台湾・台南市にある『鄭成功』(ていせいこう)を祀る祠です。台湾を占領していたオランダ人を駆逐した鄭成功の功績を賛え、鄭成功が亡くなった1662年に彼を慕う人々によって創建され『開山王廟』と名付けられました。日本統治下に入った後の1896年(明治29年)に、鄭成功を祭神とする『開山神社』と改称され、翌年に県社に列格しました。第二次世界大戦終戦後、国民党政府によって全て中国式に改築され、今日に至っています。
                 
延平郡王祠(前の牌坊実は昔の鳥居)。(写真上)
日本統治時代の開山神社の神輿(写真上) 
ていせいこう
鄭成功
鄭成功(1624~1662年)は、江戸時代初期、中国商人の父と日本人母・田川松の間に、中日混血児として長崎の平戸に生れます。幼名を福松。7歳のときに父の故郷、中国福建に連れて行かれ、朝廷高官を目指しますが、青年期は時あたかも明朝末期。1644年、東北部から南下してきた清朝によって明朝が滅ぼされると、明朝の復活を期して挙兵しました。一時は福建の厦門(アモイ)や金門などを奪回しますが、やがて大陸での拠点を失なうと、清朝への反抗拠点を台湾に確保すべく、台湾を攻めます
鄭成功(写真上)
 1661年、当時台湾を占領していたオランダ軍を制圧し、台湾全土を支配下に置いた鄭成功は、法律を定めたり、学枚を興すなどして、台湾の興隆につとめますが、1662年、志半ばにして38歳で病没。成功の事業は、息子たちによって継承されますが、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて、1683年に降伏。鄭氏一族による台湾統治は三代23年間で終了しました。
延平郡王祠の入口(写真上)
延平郡王祠の公園に建てられた馬上の鄭成功像(写真上)
公園から延平郡王祠を見る(写真上)
また、日本においては、江戸時代の1715年(正徳5年)、当時63歳だった近松門左衛門が、鄭成功のモデルを主人公にした人形浄瑠璃『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん)を完成させます。隣国である中国に題材を求めたことや、中国人と日本人の混血である主人公は、鎖国下において非常に人気を集め、大阪竹本座で17ヶ月連続興行を続けるという大ヒットになったといわれます。
  
台湾は、日本植民地時代から戦後の国民党政権時代を経て今日に至っていますが、鄭成功は、
体制や時代を越えて、台湾、中国そして日本の人々の誇り高き英雄とされてきました。
鄭成功は、彼自身の目標である『反清復明』を果たすことなく死去し、また台湾と関連していた時期も短いでしたが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖あるいは『ピルグリム・ファーザーズ』)として社会的に極めて高い地位を占めています[1]。
  
1683年に台湾鄭氏が全滅すると、清朝は台湾を直轄化しましたが、1700年、清の康熙(こうき)帝は鄭成功を明の遺臣と認め、遺骸を福建省南安に埋葬して建廟することを許しました。現在は
中国でも民族英雄として尊崇されています。 
 公園の東屋(写真上)
公園の噴水(写真上)。
             
せきかんろう
赤嵌楼
17世紀にオランダ人が築城した赤嵌楼。見える建物は海神廟(写真上)。
鄭成功とオランダ人が和議している像(写真上)
 
オランダ人による台湾統治は厳しい統治方式を採用したため漢人の不満が爆発、1652年に『郭懷一事件』というオランダ人と漢人の衝突事件が発生しました。オランダ人は事件の再発防止のために、周囲約141m、城壁高さ10.5mの城砦を築きました。城砦には水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を『赤崁楼』あるいは『紅毛楼』と称しました。
                 
赤嵌楼(せきかんろう)は、オランダ人によって築城された旧跡で、台湾台南市にあります。1653年に築城されたもので、原名は『プロヴィンティア』(Provintia、普羅民遮城)と称されていました。鄭成功が台湾を占拠すると、プロヴィンティアは東都承天府と改められ、台湾全島の最高行政機関となりました。1624年、澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し商館や砲台を築城しました[2]。
亀の上に乗った石碑(写真上)
文昌閣(左)と海神廟(右)(写真上)
文昌閣(写真上) 
その後、人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け赤嵌楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃しました。現在の赤嵌楼は、入口付近に『海神廟』、その奥に『文昌閣』が並んで建っています。これらは、清朝時代の1880年代に築造されたものです。
1661年、城砦を攻略した鄭成功は普羅民遮城を東都明京と定め、承天府を設置。38年におよぶオランダ統治は終焉を迎えました。しかし、半年後に鄭成功は病没。鄭氏政権が滅亡し、清が統治するようになると、赤嵌楼は使用されなくなります[3]。
プロヴィンティア城時代の赤レンガの城壁(写真上)  
プロヴィンティア城時代の赤嵌楼の姿(現地で撮影した絵画より)(写真上)
 
【参考にしたサイト】
[1][2][3] ウィキペディアの延平郡王祠および赤嵌楼のページ
                          
    ⇒ レポート ・人形浄瑠璃『国姓爺合戦』 ~ 鄭成功
   
          
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