♪アヴェ・マリア(カッチーニ)
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松下村塾 − 山口県萩市
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明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる吉田松陰は、家禄わずか26石の萩下級藩士の次男に生まれながら、10歳のときには藩主の御前で山鹿素行の『武教全書』を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕したということですから、その秀才ぶりがうかがい知れます。吉田松陰が講義した私塾『松下村塾』(しょうかそんじゅく)は、松陰の実家・杉家の邸内(松陰神社の境内)に、修復された当時の建物がいまも残されています。松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、わずか2年余りに過ぎませんでしたが、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる人材を多く輩出しました。                     (旅した日 2008年11月)
 
 
松下村塾
 
 
        吉田松陰と松下村塾
 
文政13年(1830年)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた吉田松陰(幼名、杉虎之助)は、天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となりますが、そのが死去すると、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受け、10歳のときに、藩主の御前で山鹿素行の著書『武教全書』を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕したということですから、その天才のほどが知れます。
 
しかし、山鹿流兵学が時代遅れだっと痛感すると、西洋兵学を学ぶために九州に遊学後、江戸に出て佐久間象山の師事を受けます。
 
ペリーが浦賀に来航すると黒船を視察して西洋の先進文明に心打たれ、伊豆(静岡県)下田に再来航したアメリカ軍艦に乗船してアメリカへの密航を企てますが失敗しその罪で伝馬町の牢屋敷送りとなり、ついて萩に移送され、一年余の間藩牢の野山獄に投じられます。
 
安政2年(1855年)に釈放され父杉百合之助預かりとなり、杉家実家の3畳半の一室に謹慎、幽囚(敷地から出ることを禁じられる)の身となり、読書と著述に専念します。その間、一年半ばかり講義も行ないます。
 
 
出獄の翌々日から父兄と伯父久五郎左衛門の申出により『孟子』の講義を始めました。『孟子』は松陰がすでに獄中で講じていたので、これを続けることにより講義を完成せしめるためもあって、のちに講義録『講孟余話』は松陰の主著の一つになっています。
 
幽囚室で親族・近隣者を相手に始めた孟子の講義は評判となり、次第に萩城下に広がって行きました。
 
その頃、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾は、近所で伯父久五郎左衛門が営む塾(久保塾)がその名を引き継いでいましたが、自然と松陰が塾の主となり、事実上松陰によって松下村塾が主宰されるようになりました。
 
受講者が増えると3畳半の幽囚室では手狭となり、杉家の敷地内にあった物置小屋を修理して八畳一間の部屋としました。ここに世に有名な松下村塾が誕生します。
 
その後、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになると、塾生らと力を合わせて、十畳半の建増しを行い、今残っている松下村塾の形となりました。
松下村塾に掛けられた門人らの写真(写真上)
しかし、安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝(あきかつ)の暗殺を計画しますが、計画が頓挫すると、長州藩に自首して再び野山獄に送られます。そして、大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られ、安政6年(1859年)に斬刑に処されました。享年30。
 
松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、わずか2年余りに過ぎませんでしたが、 松下村塾は約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材育成の場となりました。
 
松下村塾に掛けてある門人らの写真は、上段左から
久坂玄瑞(志士・蛤御門の変に戦死)
高杉晋作(志士騎兵隊総督)
松陰先生
前原一誠(参議・兵部大輔)
木戸孝充(桂小五郎)(参議)
山田顕義(内務司法大臣・日本大学創立者)
品川弥二郎(内務・農商務大臣)
野村靖(逓信大臣)
山県有朋(元帥・陸軍大将・内閣総理大臣)
伊藤博文(内閣総理大臣)
境二郎(島根県令)
飯田吉次郎(鉄道庁部長)
河北義次郎(京城公使館弁理公使)
八畳の講義室(写真下)
 
 
松陰幽囚の旧宅
杉家旧宅(写真上)
松陰の教育
この八畳の部屋は松下村塾の建物としては最初からのものである。正面の床の間は後に付け足された。この塾は自由な私学であって授業日数とか修業年限の規定もなく、80人前後と推定される塾生の半数は士分であるが、半ばは藩校明倫館に入学資格のない足軽、中間、陪臣、町人、僧侶など低い身分の子弟である。就学期間は1年前後が多く、一日に来て学ぶものは多くて30名、普通10名内外であったようである。時事を論ずるときには討論の形をとる一斉授業ではあったが、教科書も一様ではなく門人一人一人に応じて適切に選ばれ、松陰は塾生の机の間に割込んで懇切に教えた。進度を考える必要ないから、講義の途中十分に各自の意見を述べさせるなど個人指導が多かった。しかし、教育は決まった教室だけで行われるものではない。ここを拠点として門人と共に塾舎増築し、増築後は同居、同食し、あるいは今も納屋に残る米搗き台に上り書物を読みながら米をついたように、あらゆる機会を捉えて師と門人、門人同志の人間的接触を図りながら教育効果を挙げた。しかも書物だけでは伝わらない松陰の熱気あふれる現代感覚があって、学問を単なる知識として学んだのではなく、すべてわが身に引きつけて読むことを学び、主体的に考えることの喜びを呼び覚ましたのである。こうして革新的で強固な同志的結合である若き松下村塾グループが形成された。(講義室説明板より)
杉家旧宅実家にある幽囚室(写真下・右)
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