♪花の歌(ランゲ)
ぴあんの部屋
高島城と諏訪の造り酒屋 長野県諏訪市
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昭和45年(1970年)の大阪万博でラオス館だった建物が全戦没者の慰霊と世界平和を祈願する無宗派の寺院として生まれ変わった霧ヶ峰『昭和寺』を訪ねた6月の下旬、合間の時間を見て、諏訪市内の町並みを見学してまわりました。長野県南信地方の諏訪湖に隣接する諏訪市は、諏訪湖や上諏訪温泉、諏訪大社上社本宮、霧ヶ峰高原を抱える観光都市である共に、戦後、時計、カメラ、レンズなどの精密機器の生産が盛んになり、東洋のスイスと称された工業都市でもあります。また、冷涼乾燥性の気候と豊富な水と良質な酒米が醸し出す酒蔵の町としても知られています。明治維新まで諏訪氏10代の居城となった高島城と、諏訪の造り酒屋の風景をアップしました。  (旅した日 2008年06月)


高島城
        高島城
 
高島城(たかしまじょう)は、諏訪市高島にある近世の城跡。かつては諏訪湖に突き出した水城で『諏訪の浮城』あるいは『島崎城』とも呼ばれていましたが、江戸時代初めに行なわれた諏訪湖の干拓によって、水城の面影は失われました。二の丸三の丸は開発の手が入りましたが、本丸は高島公園として整備され、石垣および堀が良く残っています。

 
本丸跡への入口に復元された冠木橋と冠木門(写真左)。
諏訪地方は元々この地方の豪族である諏訪氏が代々支配し、その頃の高島城は諏訪市の背後にそびえる茶臼山に築かれた中世的な山城でした。
 
1590年、諏訪氏が武蔵(埼玉県)に転封され、替わって入府した、豊臣秀吉の武将・日根野高吉(ひねのたかよし)の設計により、1598年に完成。
 

高島城公園内の緑(写真右)、城内より冠木門を見る(写真下)。雨があがりかけの石畳が光っていました。
 しかし、関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康の天下となると、日根野高吉は下野壬生に転封。翌年、諏訪頼忠の長男諏訪頼水が高島城主に返り咲き、以後、諏訪氏は先祖伝来の諏訪の地を離れることなく、2万7千石を明治まで保ち続けました。高島城は明治維新まで諏訪氏10代の居城となった城でした。明治期に城は破却され、石垣と堀だけが残った。昭和45年(1970年)に復元天守が完成。
 
写真右は、高島城復興天守閣。高島城公園は春は、桜の名所となるそうです。 
       高島城亀石
 
この亀石(写真左)は、元々城内の庭園にあったものですが、明治8年(1887年)の廃藩の時に城外に移され、以後所有が引き継がれ、河西謙吉氏庭に安置されていました。平成19年(2007年)、132年ぶりに高島城公園に戻った由緒ある石です。水をかけると、まるで亀が生きているようになり、願いがかなうと言われているそうです。
 
写真下は、本丸跡への入口から望む近傍の町並み。
  
  
諏訪の酒蔵
      諏訪五蔵
 
諏訪は、冷涼乾燥性の気候と豊富な水と良質な酒米が醸し出す酒蔵の町としても知られています。JR上諏訪駅前から国道20号線を1km足らず南下すると、諏訪ニ丁目、元町界隈。ちょうど霧ヶ峰へ上る県道40号諏訪白樺湖小諸線の起点の辺りに5軒の造り酒屋が軒を並べます。
 
上諏訪駅の方から『舞姫』(舞姫酒造)『麗人』(麗人酒造)『本金』(酒ぬのや本金酒造)『横笛』(伊東酒造)『真澄』(宮坂醸造)。
 
諏訪大社のご宝物『真澄の鏡』を酒名に戴く真澄の宮坂醸造は、創業1662年の老舗酒蔵で、石数も長野県下最大を誇るとか。
 
舞姫酒造は1789年創業、本金の酒ぬのや本金酒造は1756年創業、いずれも200年以上の歴史を持つ老舗酒蔵です。清酒本金は、左右対称の文字より裏表の無い商売を心がけ、常に本物を目指し皆様に喜ばれ愛飲される一番(金)の製品を醸造する事を願い登録商標としたとホームページにあります。
一方、横笛の伊東酒造は、昭和33年(1958年)の創業。銘柄名は、重盛に仕える若武者齋藤滝口時頼と建礼門院の官女『横笛』との悲恋物語に由来するそうです。
 
今回、この5つの酒蔵が、酒都(しゅと)・諏訪をアピールするグループ『諏訪五蔵』を結成し、地域の活性化にも貢献しようと活動を始めました。今年(2008年)10月4日(土曜日)には、この諏訪五蔵の酒蔵の呑み歩く会が開催され、各蔵特製の粕汁や漬物などのふるまいや催しが盛りだくさん用意されるそうです。
 
 
諏訪湖
帰路、中央高速造バス(上諏訪駅発、新宿高速バスターミナル行)の車窓から望む諏訪湖と湖岸の家並み
補遺・諏訪の歴史
戦国時代、諏訪の地は諏訪神社の大祝(おおはふり=現人神として諏訪大社の頂点に位置していた役)である名門・諏訪氏の支配下にありました。諏訪氏は甲斐国守護武田氏と同盟を結んでいましたが、天文11年(1542年)には同盟関係が破綻し、武田晴信(信玄)の信濃侵攻を受けて諏訪頼重は切腹となり、諏訪氏の宗家は滅亡し、諏訪は武田領国化されました(このへんのことについては、平成19年NHK大河ドラマ『風林火山』が記憶に新しいです)。その後、頼重の従兄弟(いとこ)に当たる諏訪頼忠は、武田氏支配下の中で神官として生き残り、1582年に武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍によって滅ぼされ、さらに同年6月、信長が本能寺の変で横死すると、頼忠は自立して諏訪氏を再興します。その後、武田遺領へ侵攻してきた家康軍と戦いますが、やがて家康と和睦し、その家臣となります。天正18年(1590年)、徳川氏が関東に移封されると、頼忠も家康に従って諏訪を離れ、武蔵国奈良梨(のち、上野国那波郡惣社へ移封)に所領を与えられました。代わって、美濃斎藤氏の家臣・日根野弘就の子・高吉が諏訪氏の移った同年に入封します。そして、高吉の子・吉明が家督を継ぎましたが、慶長6年(1601年)下野国壬生藩に移封されます。同年、諏訪頼忠の子・諏訪頼水が諏訪氏の旧領・高島藩に復帰しました。以後、諏訪氏は先祖伝来の諏訪の地を離れることなく、2万7千石を明治まで保ち続けました。〜フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載〜
 霧ヶ峰『昭和寺』を訪ねて  霧ヶ峰〜白樺湖の風景


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