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旅行記 ・島津寒天工場跡 − 宮崎県都城市 2012.02.04
 
島津寒天工場跡
信州諏訪地方(長野県茅野市)では、冬の風物詩の一つとして知られる天然角寒天づくりが最盛期を迎えているこの時期(2月初め)に、島津藩財政再建の一環として行われていたという『島津寒天工場跡』を訪ねました。3〜4年前までは、茅葺だったようですが、最近はなぜか金属板葺きになっています。 
島津寒天工場跡は、国道269号線の山之口町麓交差点から県道422号線に入って5.7km進んだ、都城市山之口町(旧北諸県郡山之口町)の山あいにあります。山之口町史(平成17年12月発行)には下記のようにあります。 
〜 幕末のころ、島津藩の財政困窮はその極みに達していた。時の家老・調所(ずしょ)笑左衛門広郷(ひろさと)は指宿の豪商・浜崎太平次と諮(はか)り、財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設けた。最盛期は、三世太平次が支配人に任ぜられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われる。
この僻遠の地、永野を選んだのは、寒天製造に適した自然条件を備えていたとともに、島津家狩倉でもあり、取締りの厳しい幕府役人の目を避けるためでもあったと思われる。原料のテングサは、甑島を中心に、薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港に運び、さらに大阪・長崎に運んで、中国・ロシア等に密輸していた。
また、監督者・技術者等は、鹿児島から派遣され、西目地方(指宿・伊集院・伊作等)からの出稼者80人くらいと、地元採用者50人くらいを合わせた従業員120〜130人であったといわれている。昭和58年(1983年)8月からの発掘作業により、現在では、9基の窯跡をみることができる。窯径130cm、高さ180cm。 〜 山之口町史より
また、『島津寒天工場跡茅葺屋根復元工事、竣工記念碑』には、”祖先が残した貴重な文化遺産である寒天工場跡を正しく継承し豊かな連帯感を培(つちか)いながら大切に保存伝承して行くことを目的とする、完成は平成17年2月吉日、総工費4,000,000円”、とあります。
寒天について 寒天は、テングサ(天草)やオゴノリなどの海藻類を煮溶かし、冷して固めたもの(いわゆるトコロテン)を、さらに凍結・脱水し、乾燥させてつくります。食物繊維を豊富に含むことNo1の食品で、食べれば腹持ちがいい、ほぼノンカロリーで無制限に食べられるます。
そして、ほとんど無味無臭なので、ゼリーやみつまめ、水ようかん、フルーツポンチなどに用いられほか、サラダや肉料理、味噌汁などいろいろな食べ方が楽しめる、といった特長があり、今日、健康食品、ダイエット食品としても注目されています。more
春の植え付けのために綺麗に冬耕された農家の畑の、道路をはさんで向かい側にある島津寒天工場跡は、金属板葺きに葺き替えられて近代的な外観を呈していますが、元々は茅葺でした。
 編集後記
生まれ住んでいる地元やそこからそう遠くない所のことなのに、この歳になるまで知らずにいた歴史や文化、史跡などが、結構たくさんあることを未だに実感している次第です。『島津寒天工場跡』の存在を知ったのも、実はほんの2ヶ月前の昨年(2011年)12月のことでした。著者が住む隣町の鹿児島県薩摩川内市には、約 300年の歴史を持つ東郷文弥節人形浄瑠璃が伝承されていて、昨年11月に定期公演を観に行きました。そのつながりで、やはり同じ文弥節人形浄瑠璃が伝承されている宮崎県都城市にある『山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館』(人形の館)を訪ねたのが12月17日のことでした。そのとき、その資料館の入口で見かけたのが『島津寒天工場跡』への道標の看板だったのです。しかし、当日は、”お土産に綾(あや)のワインを”という、連れ合いとの約束を優先させて、綾町(宮崎県東諸県郡)にあるワイナリーに直行し、寒天工場跡には立ち寄らなかったのでした。帰宅してネット検索してみると、窯の跡が当時のまま残されていることにびっくりし、今回見学を果たしました。歴史(史跡)を訪ねて歩けば、歴史(史跡)に当たるという感じの『島津寒天工場跡』との出合いでした。
 レポート ・寒天と調所広郷
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