レポート  ・寒天と調所広郷   
 
− 寒天と調所広郷 −
ゼリーやみつまめ、水ようかん、フルーツポンチなどに用いられる寒天(かんてん)は、食物繊維を豊富に含むことNo1の食品で、食べれば腹持ちがいい、ほぼノンカロリーで無制限に食べられる、ほとんど無味無臭なのでサラダや肉料理、味噌汁などいろいろな食べ方が楽しめる、といった特長があり、今日、健康食品、ダイエット食品としても注目されています。
  
なお、ゼリーの材料という点では、牛や豚の骨、腱などの主成分であるコラーゲンから作られるゼラチンに似ていますが、化学的には異なる物質です。
 
テングサ(天草)やオゴノリなどの海藻類を煮溶かし、冷して固めたもの(いわゆるトコロテン)を、さらに凍結・脱水し、乾燥させてつくります。トコロテンは、奈良時代に中国から伝わりましたが、寒天は日本のオリジナル食品でした。
 
江戸時代初期の1685年(貞享2年)、京都伏見の旅館『美濃屋』の主人・美濃太郎左衛門は、戸外に捨てたトコロテンが凍結し、日中は融け、日を経た乾物を発見します。これでトコロテンをつくったところ、前よりも美しく、海藻臭さが無いものができたました。これが、寒天の起こりでした(1)
 
天保年間(1830〜1843年)になると、信州の行商人・小林粂左衛門が諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広め、角寒天として定着しました。現在でも、12月中旬から翌年2月下旬頃にかけて、長野県茅野市で天然角寒天の製造が行われており、諏訪地方の冬の風物詩の一つになっています。
 
日本で発明された寒天は、1881年(明治14年)、ロベルト・コッホが寒天培地による細菌培養法を開発すると、国際的需要が増えます。このため、第二次大戦前は寒天は日本の重要な輸出品でしたが、第二次世界大戦中は、戦略的意味合いから輸出を禁止しました(1)
 
寒天の供給を絶たれた諸外国は自力による寒天製造を試み、自然に頼らない工業的な寒天製造法を開発しました。こうして作られるようになったのが粉末寒天で、日本でも、1970年(昭和45年)頃には製造会社が35社にまで達していました。しかし、2004年(平成16年)には5社ほどにまで激減。諸外国では、モロッコ、ポルトガル、スペイン、チリやアルゼンチンで寒天が製造されているそうです(1)
 
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一方、調所広郷(ずしょ・ひろさと、1776〜1849年)は、江戸時代後期の薩摩藩(島津藩)の家老で、就任時に借金が 500万両の巨額に達していた藩財政をたった2年で250万両の蓄えが出来る程までに回復させた人でしたが、琉球を通じて清と密貿易を行った、専売制にした大島・徳之島の砂糖の取立てが過酷を極めた、証文を燃やしたり商人を脅したりして、借金を踏み倒したということなどで、悪人扱いされ、自害に追い込まれます。
 
鹿児島市天保山公園にある、平成10年3月に除幕された『調所広郷像』には、つぎのような碑文が刻まれています(2)
 
〜改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通じた中国貿易の拡大、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。だが歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ、密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷・大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからだと思う。此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に遣ることを願う。〜 
 
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さて、寒冷地・信州の特産として知られる”寒天”が、南国薩摩藩(島津藩)の家老だった調所広郷とどういう係わりがあるかといいますと、薩摩藩では、藩財政改革の一環として、調所広郷の下で寒天づくりが行われており、その工場跡が宮崎県都城市山之口町(旧北諸県郡山之口町)に残されているのです。山之口町史につぎのようにあります。
 
〜幕末のころ、島津藩の財政困窮はその極みに達していた。時の家老・調所笑左衛門広郷は、指宿の豪商・浜崎太平次と諮(はか)り、財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設けた。
 
最盛期は、三世太平次が支配人に任ぜられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われる。この僻遠の地、永野を選んだのは、寒天製造に適した自然条件を備えていたとともに、島津家狩倉でもあり、取締りの厳しい幕府役人の目を避けるためでもあったと思われる。
 
原料のテングサは、甑島を中心に、薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港に運び、さらに大阪・長崎に運んで、中国・ロシア等に密輸していた。また、監督者・技術者等は、鹿児島から派遣され、西目地方(指宿・伊集院・伊作等)からの出稼者80人くらいと、地元採用者50人くらいを合わせた従業員120〜130人であったといわれている。昭和58年(1983年)8月からの発掘作業により、現在では、9基の窯跡をみることができる。〜
 
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長野県寒天水産加工業協同組合のホームページに、”伏見で本陣を営んでいた美濃屋太郎左衛門は、参勤交代の途上宿泊した島津公をもてなすために作ったトコロテン料理の残りを、戸外に捨てたところ厳冬であったため数日後に白状に変化していたことから興味もち、この製造に取り組みはじめた”とあります(3) から、島津藩と寒天との因縁を感じないではいられません。
 
つぎのページがあります。
旅行記 ・島津寒天工場跡 − 宮崎県都城市
  
【参考にしたサイト】
(1)寒天 - Wikipedia
(2) レポート ・調所広郷
(3)長野県寒天水産加工業協同組合(寒天の里)|長野県茅野市
  

  2012.02.12
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