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先帝祭 〜 上臈道中 |
下関に初夏の 訪れを告げる『しものせき海峡まつり』は、毎年5月2日から4日までの 3日間、関門海峡をバックに盛大に行われます。 |
市内中心部各所を源平武者行列が 練り歩き、関門海峡海上では『源平船合戦パレード』が行われます。そして、約1,000人の踊り手が しゃもじを持って掛け声も賑やかに踊る『八丁浜総踊り』などなど。 |
その『しものせき海峡まつり』の 一環として行われるのが『先帝祭』です。『先帝祭』(せんていさい)とは読んで 字のごとく、『先きの帝を偲ぶ祭り』という意味です。 |
壇ノ浦の戦いにおいて幼くして 亡くなった安徳天皇(1178年〜1185年)を祀る赤間神宮(あかまじんぐう)の先帝祭は、安徳天皇の命日 (3月24日)にその遺徳を偲ぶ先帝会を修したのが起源といわれます。 |
以後毎年3月24日に 安徳天皇の御陵の前で『御陵前祭』を営み、明治以降は祭日を太陽暦(4月23日)に 改めて例祭とし、その後さらに現在の5月2日へと改められました。 |
祭初日の5月2日は、 平家落人の子孫らで組織される全国平家会の参列のもとで、御陵前での 神事を始め、平家一門追悼祭などがあります。 |
翌5月3日は、平家の遺臣で中島四郎太夫 という者が、漁師に身を窶して平家再興を計りつつ下関に潜伏、先帝会には威儀を正して参拝したという故事に 因んで、その子孫に端を発する『中島組』という漁業団体員などが参拝します。 |
そして、午後1時から いよいよ祭最大の呼び物である『上臈・官女参拝の式』、いわゆる『上臈道中』(じょうろうどうちゅう)と なります。場所取りのカメラマンは9時から4時間待ちました。 |
壇ノ浦の戦いの後に在地の 苫屋(とまや)に援(たす)けられた建礼門院の侍女たちが、在地の苫屋に養われつつ御陵に香花を手向け、 先帝会には容姿を整えて参拝したことに縁由するといわれます。 |
その後、妓楼を営むように なった苫屋の主人が、侍女たちやその遺族も没したために、抱える遊女たちにその風俗を真似て 宮廷装束に身を纏わせて参拝させるようになりました。 |
これが江戸時代に至って、 当時存在した稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれて、現在の 『上臈道中』になったといわれています。 |
吉原の花魁に模した太夫が 禿(かむろ)、上臈、稚児、警固(けいご)らを従え、下関市中を外八文字(いったん内側に 向けたつま先を外側に開いて歩く歩き方)を踏んで歩きます。 |
9時30分に 伊崎町西部公民館を出発した上臈道中一行は、唐戸商店街などを 通って、正午前に赤間神宮に到着します。 |
休憩をとったあと午後1時から、 絢爛豪華な衣装に身を包んだ5人の太夫が稚児や官女を従えて、 赤間神宮に参拝する『上臈参拝』が始まります。 |
先帝祭の時だけ架けられる赤い橋『天橋(てんきょう)』を 外文字を踏みながらゆっくり進みます。雨のため2年連続中止となったため、2017年の先帝祭には過去最高の 約39万5千人の観客(主催者発表)が訪れ、厳かな時代絵巻に見入りました。 |
【参考にしたサイト】 ・先帝祭 - Wikipedia |
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