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旅行記 ・先帝祭 〜 上臈道中 − 山口県下関市 2017.05.03
先帝祭 〜 上臈道中
下関に初夏の
訪れを告げる『しものせき海峡まつり』は、毎年5月2日から4日までの
3日間、関門海峡をバックに盛大に行われます。
市内中心部各所を源平武者行列が
練り歩き、関門海峡海上では『源平船合戦パレード』が行われます。そして、約1,000人の踊り手が
しゃもじを持って掛け声も賑やかに踊る『八丁浜総踊り』などなど。
その『しものせき海峡まつり』の
一環として行われるのが『先帝祭』です。『先帝祭』
(せんていさい)とは読んで
字のごとく、『先きの帝を偲ぶ祭り』という意味です。
壇ノ浦の戦いにおいて幼くして
亡くなった安徳天皇(1178年〜1185年)を祀る赤間神宮
(あかまじんぐう)の先帝祭は、安徳天皇の命日
(3月24日)にその遺徳を偲ぶ先帝会を修したのが起源といわれます。
後毎年3月24日に
安徳天皇の御陵の前で『御陵前祭』を営み、明治以降は祭日を太陽暦(4月23日)に
改めて例祭とし、その後さらに現在の5月2日へと改められました。 
初日の5月2日は、
平家落人の子孫らで組織される全国平家会の参列のもとで、御陵前での
神事を始め、平家一門追悼祭などがあります。
5月3日は、平家の遺臣で中島四郎太夫
という者が、漁師に身を窶して平家再興を計りつつ下関に潜伏、先帝会には威儀を正して参拝したという故事に
因んで、その子孫に端を発する『中島組』という漁業団体員などが参拝します。
そして、午後1時から
いよいよ祭最大の呼び物である『上臈・官女参拝の式』、いわゆる『上臈道中』
(じょうろうどうちゅう)
なります。場所取りのカメラマンは9時から4時間待ちました。
壇ノ浦の戦いの後に在地の
苫屋(とまや)に援(たす)けられた建礼門院の侍女たちが、在地の苫屋に養われつつ御陵に香花を手向け、
先帝会には容姿を整えて参拝したことに縁由するといわれます。
その後、妓楼を営むように
なった苫屋の主人が、侍女たちやその遺族も没したために、抱える遊女たちにその風俗を真似て
宮廷装束に身を纏わせて参拝させるようになりました。
これが江戸時代に至って、
当時存在した稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれて、現在の
『上臈道中』になったといわれています。
吉原の花魁に模した太夫が
禿
(かむろ)、上臈、稚児、警固(けいご)らを従え、下関市中を外八文字(いったん内側に
向けたつま先を外側に開いて歩く歩き方)を踏んで歩きます。
9時30分に
伊崎町西部公民館を出発した上臈道中一行は、唐戸商店街などを
通って、正午前に赤間神宮に到着します。
休憩をとったあと午後1時から、
絢爛豪華な衣装に身を包んだ5人の太夫が稚児や官女を従えて、
赤間神宮に参拝する『上臈参拝』が始まります。
先帝祭の時だけ架けられる赤い橋『天橋(てんきょう)』を
外文字を踏みながらゆっくり進みます。雨のため2年連続中止となったため、2017年の先帝祭には過去最高の
約39万5千人の観客(主催者発表)が訪れ、厳かな時代絵巻に見入りました。
 
【参考にしたサイト】
・先帝祭 - Wikipedia
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