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旅行記 ・札幌開拓使麦酒醸造所 − 北海道札幌市 2012.07
残響
(村橋久成胸像)
村橋久成胸像『残影』が前庭に建立されている『北海道知事公館』
北海道知事公館 三井合名会社の別邸として建てられたもので、昭和28年(1953年)から知事公館として使用されています。緑豊かな庭園は静かに散策を楽しめる札幌都心部のオアシスとして利用されているほか、館内の見学も可能です。建物は平成11年(1999年)10月に 文化財保護法に基づく登録有形文化財に登録されました。知事公館がある一帯は、明治8年(1875年)、開拓大判官松本十郎氏が酒田県(現在の山形県)旧鶴岡藩士族156名を札幌に招へいし、荒野の開墾に当たらせ桑苗を植え桑園を経営した跡で、現在も、ここから北側にかけては『桑園』(そうえん)の地名で呼ばれています。明治25年(1892年)頃、桑園は分譲され、大正4年(1915年)三井合名会社の手に入り、三井別邸として来客の応接等に使用していました。東西線・西18丁目駅下車4番出口から徒歩5分。正4年(1915年)、この敷地と邸宅を三井合名会社が購入して、三井別邸として来客の応接等に使用していましたが
 むらはしひさなり       .
村橋久成胸像『残響』 
村橋久成(1842〜1892)は鹿児島県(薩摩藩)人。幕末にロンドン大学に留学し、戊辰の役の箱館戦争で政府軍の軍監として活躍した。のち、開拓使に出仕して勧業事業を担当し、麦酒醸造所(サッポロビールの前身)をはじめ、琴似屯田兵村・七重勧業試験場・葡萄酒醸造所・製糸所・鶏卵孵化場・仮博物場・放羊場などを創設し、北海道産業の礎となる。1882年に職を辞して行脚放浪の身となり神戸市外で没した。その業績は1982年刊行の田中和夫著『残響』で知られるところとなり、翌年には中村晋也日本芸術院会員が胸像『残響』を制作。2004年2月に期成会が発足し、多くの方の賛同を得てこの像の建立をみた。
  
   2005年9月 
   村橋久成胸像『残響』
   札幌建立期成会会長
   木原直彦
 
中村晋也氏(日本芸術院会員)作による村橋久成胸像『残響』
建立までの経緯 一般にはあまり知られていない村橋久成の名が再び人々の知るところとなったのは、昭和57(1982)年、作家・田中和夫氏による小説『残響』の北海道新聞文学賞受賞をきっかけでした。平成11(1999)年に北海道久成会が発足し地道な活動が続けられていましたが、平成15(2003)年7月の高橋はるみ知事の道政執行方針演説の中に村橋久成の功績が取り上げられたことを契機に、翌年“胸像『残響』札幌建立期成会”が結成されました。そして、平成17年(2005年)9月、北海道知事公館前庭に胸像が建立され除幕式へと結実しました。
 開拓使通り
(北三条通り)
『道庁赤れんが』(北海道庁旧本庁舎)−北海道大学植物園側より見る
北海道のシンボルである道庁赤れんが(北海道庁旧本庁舎)の正門からまっすぐ東にのびる現在の北三条通りはかつで”開拓使通り”と呼ばれていました。その北三条通りをまっすぐ東に向かい、札幌駅前通りを横切り、創成(そうせい)川をわたると、そこにはかつて開拓使によって事業所群が建設されていました。

札幌開拓使麦酒醸造所
(サッポロファクトリー)
『札幌開拓使麦酒醸造所』と書かれた赤レンガの建物
北海道への移民と開拓が本格化するのは明治20年代以降のことで、開拓使の時代(明治2年(1869年)7月〜明治15年2月)は、北海道開拓そのものというより、本格的に移民をすすめ開拓にとりかかるためのインフラ整備の時代でした。開拓使が建設した官営諸工場群は、いわば開拓使のベースキャンプでした。
宮崎駿のアニメを連想させるような黒い鋼鉄製の煙突
味噌醤油醸造、製塩、木工。鉄工、挽材、麺粉、煉瓦石、石灰、製網、葡萄酒、肝油、缶詰など30余の官営諸工場が建設されましたが、しかし、明治15年(1882年)2月に開拓使が廃止になると、それにともない官営諸工場は民間に払い下げられ、時代の流れのなかで次々と姿を消して行きました。
『赤の星』のマークは約140年前、村橋が上局の稟裁を得て『化粧紙』に印刷したものです。
ただ一つ、昔も今も変らない姿を保ち、歴史を継承し続けているのが『札幌開拓使麦酒醸造所』です。村橋久成が、ドイツのベルリン麦酒醸造会社で3年間の修業を終えて帰国した醸造技師・中川清兵衛を招へいして建設した札幌開拓使麦酒醸造所は、開拓使の廃止にともなって農商務省管轄になりました。
北三条通りに面した赤レンガの建物
明治19年(1886年)に大倉喜八郎の大倉組に払い下げられ、さらに明治21年には札幌麦酒株式会社(現サッポロビール株式会社の前身)となりました。開拓使の時代以来、明治・大正・昭和とビールを作り続けてきた工場は、平成のはじまりと同時に工場移転します。
赤レンガの建物は村橋久成が神戸の路上に倒れた明治25年に建てられています。
それにともなって、北三条通りに面した工場跡地は、その歴史的建造物を活かした商業施設『サッポロファクトリー』として生まれ変わりました。黒い鋼鉄をつなぎあわせて作った煙突や古い赤レンガの建物、そして村橋が約140年前に上局の稟裁を得て『化粧紙』に印刷した『赤の星』のマークが開拓使時代の記憶を今に伝えています。
よく茂った蔦に覆われたレンガ館の壁
 
  田中和夫・著『残響』
(文化ジャーナル鹿児島社/1998年(平成10年)7月第一刷発行/定価\1500+税)

  
藩命で薩摩藩英国留学生の一人としてイギリスに留学し、帰国後、戊辰戦争に参加、のち開拓使につとめ、明治9年に開拓使麦酒醸造所(現サッポロビールの前身)を誕生させたほか、琴似屯田兵村・七重勧業試験場・葡萄酒醸造所・製糸所・鶏卵孵化場・仮博物場・放羊場などを創設し、北海道産業の礎になる業績を残しながら、開拓使官有物払下げ計画が具体化すると、突然開拓使を辞職して行方をくらまし、その11年後、神戸の路上に行き倒れて凄絶な死をとげた村橋久成。北に夢を追ったサムライは、何を思い流浪の人になったのか。約500冊にも及ぶ公文録・申奏録・会計書類などを紐解きながら足跡を突き止め、村橋久成の生き方を描き切ろうとした小説。第16回北海道新聞文学賞受賞作品。※本書は昭和57年に出版のものが平成10年に再出版されたものです。
【参考図書およびサイト】
(1)田中和夫・著『残響』(文化ジャーナル鹿児島社/1998年(平成10年)7月第一刷発行)
(2)西村英樹・著『夢のサムライ』(文化ジャーナル鹿児島社/1998年(平成10年)6月第一刷発行)

(3)甦る、村橋久成(中西出版公式ホームページ)y
(4)浪漫邂逅−サッポロビールを創製した、男達の残響−
(5)開拓使麦酒醸造所★物語(サッポロファクトリー公式ホームページ)
 レポート ・村橋久成
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