レポート  ・村橋久成   
− 村橋久成 −
            
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文久3年(1863年)の薩英戦争で西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は、鎖国の禁を犯し、慶応元年(1865年)、藩士17名の留学生を英国に派遣します。いわゆる薩摩藩英国留学生で、一行は、慶応元年(1865年)4月17日、鹿児島県串木野市羽島浦から英国貿易商グラバーが用意した蒸気船オースタライエン号で密かに英国に旅立ちました。
 
鹿児島中央駅の正面には、薩摩藩英国留学生をモチーフにした『若き薩摩の群像』の像碑がそびえ立っています。その薩摩藩英国留学生の一人に、村橋久成(むらはし・ひさなり)という人がいました。村橋久成は、天保13年(1842年)、薩摩藩主島津家の一門で加治木領主島津家の分家という由緒ある村橋家の嫡子として出生します。
 
村橋家は将来は家老職に就く家柄で、久成自信も御小姓与番頭という重職に任ぜられ、百八十石を拝領していました。英国留学から帰国後、加治木大砲隊長として 250名の兵をひきいて戊辰戦争に出軍し、新潟・山形・青森そして箱館を転戦します。
 
旧幕府軍征討青森口鎮撫総督府の軍監(戦場で軍の進退などを監督する役目)として箱館戦争に参戦、箱館病院長の高松凌雲を通じて榎本武揚に恭順を勧告します。明治2年(1869年)五稜郭が落ちて旧幕府軍が降参し、榎本らの恭順に立ち合いました。
 
蝦夷地が平定されると軍監を免ぜられ、いったん鹿児島に帰着し、翌々年の明治4年開拓使に採用されます。以後、明治9年(1876年)に開拓使麦酒醸造所(現サッポロビールの前身)を誕生させたほか、琴似屯田兵村・七重勧業試験場・葡萄酒醸造所・製糸所・鶏卵孵化場・仮博物場・放羊場などの創設に携わりました。以下に、開拓使における業績を村橋久成年賦[1]から抜粋してみます。
 
 明治4年(1871年)
  ・開拓使採用。十等出仕、東京出張所在勤
 明治5年(1872年)
  ・開拓権大主典となる。東京三官園担当となる
 明治6年(1873年)
  ・農業課七重村官園(旧七重開墾場、のち七重勧業試験場と
   改称)在勤
 明治7年(1874年)
  ・札幌殖民地(屯田兵村地)取調べを命ぜられる
  ・七重村官園300万坪の全地測量と畑地の区画を終了
  ・屯田兵の入殖地を琴似村に決定し、200戸の兵屋建築のため
   同地域の伐木と測量地区割り作業を行う
  ・琴似兵村に208戸の兵屋落成
 明治8年(1875年)
  ・北海道物産縦覧所(のち、仮博物場と改称)事務管理を
   命ぜられる
  ・ドイツ帰りの麦酒醸造人・中川清兵衛を雇用し、雇用期間中
   は辞職は相ならぬという内容の誓約書を提出させる
  ・麦酒醸造所建設見積書、麦酒製造入用品見積書を上局に提出
  ・麦酒醸造所、北海道建設の稟議書を上局に提出
 明治9年(1876年)
  ・麦酒醸造所北海道建設を促す稟議書を再提出。北海道実地
   建設までの仮払い
   稟議書を提出
  ・麦酒醸造所北海道建設稟議、裁可
  ・麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、札幌製糸所建設の指令下る
  ・三所建設のため、札幌在勤となる
  ・麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、札幌製糸所開業式
 明治11年(1878年)
  ・札幌本庁民事局副長に任ぜられる
 明治14年(1881年)
  ・開拓使を辞職
 
明治5年、開拓使は、道内の勧業を促進するために建設した他の官営工場と同じ目的で、北海道産のホップによる麦酒醸造所建設を計画します。しかし、麦酒醸造所は例によって、試験のためにまず東京官園内に建設し、試験の結果をみたうえで、好成績なら北海道へ移設するというものでした[2]
 
しかし、村橋は、東京に建設するというのは例によって開拓次官・黒田清隆らの政治的パフォーマンスだと考え、北海道における勧業、勧農が目的の麦酒醸造ならば最初から北海道に建設すべきだと異論を抱きます。
 
ドイツ帰りの麦酒醸造人・中川清兵衛の雇用を決定し、予定より大幅に遅れて外国注文の醸造備品が届いた明治8年の暮れ、上局決定を変更し、東京ではなく、最初から北海道に建設することを求める稟議書を提出します。強い反対に合うこと、あるいは村橋が一層好ましくない立場に追いやられることも覚悟しての稟議書提出でした。
 
村橋の主張は認められましたが、あわせて葡萄酒醸造所と札幌製糸所も建設せよ、という重圧を負わされての認可でした。明治9年5月、札幌在勤となった村橋は、中川清兵衛を督励して、麦酒醸造所をはじめ三つの施設建設を急ぎ、9月にはすべてを完成させました。
 
もし、村橋の上申がなく麦酒醸造所が東京に建設されていたら、開拓使ビールはどうなっていたか分からなかっただろうと言われます。日本のビール産業の成立は遅れていたかも知れません。まさしく、村橋久成は開拓使ビールの生みの親でした。
 
このように、北海道産業の礎になる業績を多く残した村橋久成でしたが、ビール醸造が軌道にのるなかで開拓使官有物払下げ計画が具体化してきた明治14年(1881年)の5月、村橋は、突然辞表を出して開拓使を去り、行脚流浪の旅に出ます。その後村橋の消息は途絶えます。
 
それから11年後の明治25年(1892年)10月12日、神戸又新(ゆうしん)日報に、『鹿児島県鹿児島郡塩屋村 村橋久成。神戸郊外の路上において疾病のため倒れていたところを発見される。着衣は木綿シャツ1枚に白木綿三尺帯一本。救護したが収容中の9月28日に死亡につき、仮埋葬をした。心当たりの者は申し出よ』という死亡広告が掲載されました。
 
裸同然の状態で施療院に収容された村橋は『鹿児島県士族、村橋久成』だけ言い残して息絶えたといわれます。享年50歳。北に夢を追ったサムライは、何を思い流浪の人になったのでしょうか。
             
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あまり知られることもなく歴史に埋もれたままだった村橋久成の名が百年の時を超えて再び登場するきっかけになったのが、昭和57年(1982年)に刊行された作家・田中和夫氏による小説『残響』(第16回北海道新聞文学賞受賞)でした。
 
市立札幌図書館が時計台内にあった頃、閲覧用の書架にあった北海道史人名辞典の頁をめくっていた田中さんは、『村橋久成』という名前に目が止まります。それが村橋久成との出会いのはじまりでした。約 500冊にも及ぶ公文録・申奏録・会計書類などを紐解きながら村橋久成の足跡を突き止め、デリカシーと芯の強さを併せ持った清廉潔白な人物像を描き上げました。
 
明治維新の立役者は下級藩士でした。彼らは、なんの束縛もなく自由に動き回れ、倒幕運動に加わることができました。下級藩士に甘んじてきた積年の思いが一気に爆発し倒幕の原動力となり、国家建設の枢機に参画するエネルギーになりました。一方、藩のエリートだった上級藩士は、そこまで奔放になれませんでした。
 
加えて、英国留学によって激しいカルチャーショックを受けた村橋は、薩摩藩という一地域でなく、東洋の中の日本という『国家』を意識し、世界の中の『日本人』ということを意識するようになります。人一倍その意識を強く持った村橋は、将来薩摩藩の重職に就く立場にありながら藩意識が薄れていく自分に不安を感じ、当初2年間を予定していた留学を打ち切って、出国の翌年帰国したのでした。
 
帰国後、加治木大砲隊長として戊辰戦争に出軍し、新潟・山形・青森そして箱館を転戦し、軍監として箱館戦争に参戦。蝦夷地が平定されるといったん鹿児島に帰着し、翌々年、開拓使に採用されます。
 
開拓使は、長官の黒田清隆をはじめ、北大の前身、札幌農学校の初代校長を兼務し、開拓使廃止後には札幌県令(現在の県知事)をつとめた調所広丈、同じく根室県令となった湯地定基、函館県令の時任為基、屯田兵の父と呼ばれのちに第2代北海道長官になった永山武四郎といった人びとなど、そのキーマンの大多数が鹿児島県士族で占められていました。
 
鹿児島県士族たちが、黒田を頂点として作り上げられた薩摩閥を最大限に利用して栄進を遂げていくなかで、一人村橋だけは閥に与(くみ)しませんでした。それがまわりの鹿児島県士族たちとの間に軋轢(あつれき)を生み、一方で、栄達を望まないとは言え、自分だけが取り残されていくのではないかという不安にかられ、村橋は自己嫌悪に陥ります。
 
それでも、村橋はひたすら孤高(ここう)を守り続け、イギリス留学中に農業都市・ベッドフォードで目にした機械設備による近代的農業技術の北海道への導入を夢見つ続けるのでした。
 
自ら薩摩閥に与したわけではありませんでしたが、それでも、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、札幌製糸所の三所を開業させた年の翌々年、明治11年(1878年)、村橋久成は札幌本庁民事局副長に任ぜられます(局長は調所広丈)。村橋にとって縦横の活躍ができる晴れ舞台が約束されていたようなものでしたが、3年後の明治14年(1881年)開拓使を突然辞職し、行脚流浪の旅に出ます。
 
十年計画の満期が近くなった明治14年に開拓使の廃止方針が固まると、黒田清隆は、開拓使の事業を継承させるために、部下の官吏を退職させて企業を起こし、官有の施設・設備を安値で払い下げることを決めます。黒田のこの決定は世論の厳しい批判を浴び、払下げは中止となりますが、開拓事業を私物化しようとする薩摩閥に怒りと失望を感じての辞職だったのではないかと言われています。
               
村橋久成の名が再び人々の知るところとなると、平成11(1999)年に北海道久成会が発足し、平成15年(2003年)7月の高橋はるみ知事の道政執行方針演説に村橋久成の功績が取り上げられたのを契機に“胸像『残響』札幌建立期成会”が結成されます。そして、中村晋也日本芸術院会員によって制作されていた村橋の胸像が、平成17年(2005年)北海道知事公館前庭に建立され除幕式へと結実しました。
 
− 補遺 −
 
神戸の路上で行き倒れて凄絶な死をとげた村橋久成の遺骨がどうなったのか長い間知られないままでした。ところが 100年近くを経た昭和60年(1985年)になって、東京・青山霊園に墓碑があることが判明し、東京に在住の実のお孫さんの家から『故村橋久成氏葬儀関係文書』と書かれたひとまとまりの文書類が見つかります。
 
驚いたことに、黒田清隆をはじめとする開拓使元幹部たちの手によってとりおこなわれた、村橋久成の葬儀に関する記録書類とその前後にかれらのあいだでやりとりされた数十通の文書類でした。その詳細について、参考図書[1] に写真入りで紹介されています。
 
〜 それらの文書からは、開拓使時代はもちろん、幕末・維新にさかのぼって、生死をともにした仲間にたいする薩摩人たちの深い温情と、開拓使廃止から10年の月日を経てなお生きつづけた同志的結束の強さ、そして、維新から四半世紀を経たこの当時のかれらの様子をうかがい知ることができる。 〜 (参考図書[1] より引用)
 
下記の旅行記が参考になります。
 旅行記 ・札幌開拓使麦酒醸造所 − 北海道札幌市
 
【参考図書】
[1] 西村英樹・著『夢のサムライ』(文化ジャーナル鹿児島社/  
  1998年(平成10年)6月第一刷発行)
[2] 田中和夫・著『残響』(文化ジャーナル鹿児島社/1998年
  (平成10年)7月第一刷発行)

 
 西村英樹・著『夢のサムライ』(文化ジャーナル鹿児島社)表紙
  

2012.08.15  
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