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旅行記 サン・ピエトロ大聖堂 − イタリア(15) 2014.07
サン・ピエトロ大聖堂
サン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう)は、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。
ファサード(街路や広場に面する建物の正面部分のこと)は、2階構造で、8本の円柱、6本の半角柱、4本の角柱が支える。屋上にはそれぞれ5.7m高の聖人像13体が飾られ、その下になる2階部分には5つのバルコニーがある。その中央は、教皇が祝福を行う専用のロッジャとなっている(写真上)。
カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m2。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
サン・ピエトロ大聖堂は世界最大級の教会堂建築である。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものである。高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737m2。教会堂の前部には長径200m、短径165mの広場(サン・ピエトロ広場)が存在する。北側にはバチカン宮殿、南に教皇謁見所と宝物館が隣接する。
ルネサンス時代、バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わった。その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。本来は、コンスタンティヌス1世により、聖ペテロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として建設されたものである。
14世紀まで、ローマ司教(現在のローマ教皇)の司教座聖堂は、コンスタンティヌスのバシリカ(現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)であった。アヴィニョン捕囚によってラテラーノ宮殿が荒廃したため、1377年にローマに戻った教皇によって、ローマ教皇の座所となる。
最初の教会堂が大聖堂ではなく、聖ペテロの墓地の巡礼を目的として設計されたため、本来は東側に向けて構築されるはずのアプスは西に向けられ、東側には入り口が設けられている。(以上、サン・ピエトロ大聖堂 - Wikipedia より転載)。
大聖堂の装飾 サン・ピエトロ大聖堂を含むイタリアを訪れた観光客がかかる「スタンダール症候群」という病気を、1979年にフィレンツェの精神科医師ガジエッラ・マゲリーニが指摘した。これは、膨大な芸術作品群をできる限り多く見て回ろうとする強迫観念が、観光を楽しむ余裕を奪い、頭痛などの症状を発するものである。
1975年にガラッシ・パルッツィが著した本によると、大聖堂の美術品はトラヴェルティーノ像165体、ストゥッコ像125体、大理石彫像が110体、ブロンズ像40体があると記されており、そのひとつひとつが大作揃いである。祭壇画はほとんどがモザイクの複製画に取り換えられているが、これも膨大な数になる。
        サン・ピエトロのピエタ
 
ミケランジェロ(1475年〜1564年)は『ピエタ』(慈悲などの意)を題材とする彫刻を生涯に4体制作している(サン・ピエトロ大聖堂、フィレンツェのドゥオーモ博物館、フィレンツェのアカデミア美術館、ミラノのスフォルツァ城博物館)。ピエタは聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである。
 
とりわけ『サン・ピエトロのピエタ』は、他の芸術家によっても同じ題材で数多く作られたピエタと比較しても肩を並べるもののない傑作であり、これによってミケランジェロの名声は確立された。また、視力を失いながら手探りで制作を続けたといわれる4作目『ロンダニーニのピエタ』はミケランジェロの遺作となった。
  
『サン・ピエトロのピエタ』(1498年〜1500年)はサン・ピエトロ大聖堂収蔵の大理石彫刻の一つであり、「ピエタ」を題材とする数多の作品の中でも第一に挙げられるものである。古典的な調和、美、抑制というルネサンスの理想の最終到達点ともいうべき完成度を誇り、ミケランジェロの数多い作品の中でもとりわけ洗練され精緻を極めたものとなっている。
写真は、『ピエタ (ミケランジェロ) - Wikipedia』(アップロード者: Glimz)より
(注記) トラヴェルティーノ像は、ローマのトラベルティーノ・ロマーノという石を使って彫られた彫刻。ストゥッコ像は、ストゥッコを用いて作った像。ストゥッコは、建築の内壁仕上げに用いる化粧漆喰(しっくい)。消石灰を主原料とし、補強のために粘土粉、大理石粉、砂、顔料などを混ぜ練ったもの。加工しやすく、乾くと硬化する。
 
祭壇画はほとんどがモザイクの複製画に取り換えられているが、これも膨大な数になる。聖堂内にある歴代教皇の墓は147基あり、多くは地下礼拝堂にあるが堂内でもたくさんの墓碑を見ることができる。(以上、サン・ピエトロ大聖堂 - Wikipedia(大聖堂の装飾) より転載)。
バチカンのスイス衛兵隊 大聖堂の入口を固めているのがスイス衛兵(写真上)。16世紀ルネサンス時代の青、赤、オレンジ、黄色の縞の制服そのままの格好に、昔ながらの槍を持っている。1505年6月に教皇ユリウス2世はそれまで教皇領では兵士は臨時に傭兵を使用してきたものを改め、常備軍を創設することを決定した。当時にヨーロッパの傭兵の中では無類の強さで知られていたスイス傭兵に採用された。現在のバチカンのスイス衛兵もこれが基礎となっている。(スイス傭兵 - Wikipediaより)。
サン・ピエトロ広場 広場は楕円形と台形が組み合わさったコロネード(列柱)に囲まれ、中央には高さ25.5mのオペリスク(神殿などに立てられた記念碑)がある。このオペリスクはカリグラ帝の戦車競技場にあったもので、旧パジリカ時代には大聖堂の横に立っていたが、1686年に現在の場所へ移された。
コロネードの湾曲部分は「楕円」と言われるが、実際はそれぞれの中心がもう一方の円周上にある2つの正円である。各中心には円盤の目印があり、ここから眺めると4列の柱が重なって1本に見える。柱の総数はドーリス式円柱が240本、ピラスター(角柱)が88本。
そして高さ3.2mの聖人像144体がある。楕円中心部には2つの噴水があり、右側はカルノ・マデルノ(1613年)、左側はカルロ・フォンターナ(1677年)の作である。聖ペテロ、聖パウロそれぞれの像は15世紀の彫刻から19世紀中ごろに現在のものへ置き換えられた。(以上、サン・ピエトロ大聖堂 - Wikipedia(サン・ピエトロ広場) より転載)。
【参考サイト】
本ページの説明文は下記の参考サイトから部分転載して作成しました。
(1)サン・ピエトロ大聖堂 - Wikipedia
(2)スイス傭兵 - Wikipedia
(3)ピエタ (ミケランジェロ) - Wikipedia
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