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特別史跡西都原古墳群− 宮崎県西都市
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宮崎市街から北へ車で約30分走った西都市の市街地西方に、西都原(さいとばる)と呼ばれる東西2.6km、南北4.2km、標高50〜80mの洪積世(こうせきせい)台地があります。この台地上とその周辺には、3世紀半ばから7世紀に築造されたと推定される311基のさまざまな形をした古墳が点在します。1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定され、1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)にかけて『風土記(ふどき)の丘』第1号として整備されましたが、その古墳の大部分は、いまだ発掘されないまま、多くの古代の謎を秘めて千数百年もの時を眠り続けています。特別史跡西都原古墳群の風景の一端をアップロードしました。
                                           (旅した日 2005年07月)
西都原古墳群
西都原古墳群は、前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、計 311基のさまざまな古墳で構成された全国有数の大古墳群です。第1〜3古墳群までの古墳の個数は、それぞれ91基、39基、86基で、その他台地内95基となっています。上の写真および下の写真は、いずれも第1古墳群の風景です。
  『西都原81古墳、国内最古級の前方後円墳と確認
    〜出典:2005年5月18日 共同ニュース〜

西都原古墳群にある前方後円墳が、宮崎大学の調査で18日までに、国内最古級と確認されました。確認されたのは81号墳で、この古墳は長さが52メートルで、卵形の後円部と短いバチ状の前方部を持つ『纒向(まきむく)型前方後円墳』と呼ばれる型式の古墳です。

後円部から、弥生時代と古墳時代の過渡期にあたる土器が出土したため、今まで4世紀とされてきた
西都原古墳群の築造開始時期は、半世紀前後さかのぼって3世紀中ごろということになります。

同じ型式の古墳の築造が畿内でほぼ同時期に始まっていますが、同時期に南九州にも古墳文化の動きがあったことになり、
大和政権主導によって古墳文化が成立したとする説に一石を投じることになりました。


  『男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)』

男狭穂塚
は、日本最大の帆立貝形古墳(154m長、19m高)で、女狭穂塚は、九州最大の前方後円墳(176m長、13m高)です。いずれも5世紀前半の造営とされています。男狭穂塚は、高千穂の峰に降り立ったニニギノミコトの墓、女狭穂塚は、ニニギノミコトが西都の地で出会って妻としたコノハナサクヤヒメの墓と伝承されていますが、時期が古墳造営時期と大きく異なっていて、被葬者には諸説があるようです。


13号墳
4世紀後半頃に造られたとされる13号墳は、全長79.4m、高さ8.9mの柄鏡(えかがみ)式前方後円墳で、主体部から国産の三角縁三神三獣鏡、まが玉、武器などが出土しています。13号墳は、竪穴式石室の部分がくり抜かれ、粘土槨(ねんどかく)を見学できます。
粘土槨(ねんどかく)粘土と人頭大の石で造った土台に、丸太をくり抜いて作った木の棺を載せ、粘土と石で覆ったものです。しかし、古墳が造られて1600年以上が経過する間に、木はほとんど腐り、鏡の下に棺材と考えられる木片がわずかに残るのみです。棺床の小礫(れき)が赤いのは、古墳時代の人が僻邪(へきじゃ:悪いものを遠ざけること)の色と考えていた赤色を施すために朱を木棺の下にまいていたためだと考えられています。

鬼の窟(いわや)古墳
6世紀後半〜7世紀初めに築造された古墳。直径37m、高さ7.3mの円墳で、墳丘の周囲に外堤を有している古墳です。西都原古墳群では、横穴敷き石室を有する唯一の古墳で、最後の首長の墓とされています。石室の中から、組み合わせ式木棺と推定される鉄釘、耳環、金銅装馬具、須恵器(すえき)、土師器(はじき)などが出土しています。石室内部が見学できるように整備されています。
鬼の窟伝説 コノハナサクヤヒメ(木花開邪姫)を嫁に所望した悪鬼がいました。困り果てたコノハナサクヤヒメの父神オオヤマツミノカミは、一計を思いつき、一夜で岩屋を完成させたら考えても良いと言いました。ところが予想に反して、悪鬼は一夜で岩屋を作り上げてしまったのです。慌てたオオヤマツミノカミは、早朝悪鬼が寝ている間に岩屋の石を一枚抜き取ります。完成させたと思っていた悪鬼は、泣く泣くコノハナサクヤヒメを諦めたそうです。悪鬼が一夜で完成させたという岩屋がこの古墳で、名前はその伝説に由来しています。

西都原考古博物館
県立西都原考古博物館は、宮崎県の考古学研究の拠点として、平成16年(2004年)に西都原の北端に開館しました。古墳時代とその前後の時代の貴重な資料や考古学に身近に触れることができます。船形埴輪(写真上)は、169号墳 (飯盛塚)から出土したものです。中国江南地方との交易に使われた船の形をしており、古墳時代から南方との交易があったことを示しているといわれます(重要文化財)。169号墳からは、子持ち家形埴輪なども出土しています。その他の出土品のいくつかの写真を下に示します。いずれも生徒ばる考古博物館で撮影したものです。


 西都市公式ホームページ  宮崎県西都原考古博物館

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